前回はこちら
内陸の商店街を堪能した前回に変わり、今回は蔵の街らしい眺めを楽しんでいきます。
※2020年7月2日(土)撮影
川沿いを散策
高校生の日傘が夏らしい眺めです。この日の最高気温は37℃。
突如やって来た真夏日に、日本中がざわついておりましたね。
巴波川を沿いを北進していきます。
この巴波川は蔵の街 栃木の生みの親と言っても過言ではないでしょう。
日光例幣使街道の宿場町だった栃木ですが、南北に縦貫する巴波川がさらなる発展に大きく寄与してきました。
鉄道や自動車が普及するまでは、舟がヒト・モノを運ぶ重要な手段。栃木もこの巴波川により、江戸と繋がれる交通の要衝・物資の集散地として賑わっていたのです。
モノが集まれば、それを貯めておく蔵が必要になります。かくして蔵の街 栃木が誕生したのでありました。
昭和5年(1930)年 架橋とある倭橋(やまとばし)。巴波川に架かる橋はどれも味わい深い造りになっている。ちなみに、巴波川沿いで栃木が選ばれたのも、
①舟が乗り入れられる水深がこの辺りまでだった。
②徳川家康が日光の東照宮に祀られる際、資材の荷下ろしをここでした(資材を荷揚げして、例幣使街道で運んだのでしょう)
というような理由もあったようです。
川岸に降りられる階段がありましたので、涼みに行ってみます。
良いですねぇ。川沿いに柳を植えるのは、景観のみならず、水に強く、しっかり根を張る特性によって護岸が京かされるためなのだとか。才色兼備ですね、柳さん。
水源も近く穏やかな巴波川。ですが、2019(令和元)年の台風19号来襲時には以下動画のような姿に。。
先ほどの基準は設置後間もなく見受けられたので、この氾濫をきっかけに設けられたのでしょうかね。
こうした記録がなければ、この水の流れが街に繰り出してくるとは想像できません。貴重な資料です。
江戸期には麻問屋、そして明治に入り銀行を生業として富を築いた横山家。
前面を店舗、後方を住宅とした当時の建物が今も残されております。先ほどの幸来橋と共に、蔵の街を感じられる場所でありましょう。
また、この石蔵も栃木らしい眺めと言えるでしょう。大谷石の名が知られているように(30代以上の方でしたら、GLAYのSOUL LOVEのPVをご覧ください)、栃木県は石材に恵まれており市内散策中も立派な石蔵を何度も見かけることができました。
「県庁」を名乗る場所
常盤橋から西側分かれていく水路があります。これが県庁堀
栃木県の名称はこの地域の「栃木」から取られたもの。現在の県庁は宇都宮にありますが、その理由は後ほど。
県庁堀沿いには、
そして、この堀に囲まれているのが、
失われた県庁
今から100年前、1921(大正10)年に竣工した旧栃木町役場です。
大正ロマンを体現したような美しい洋風な造りです。平成26年まで栃木「市役所」の別館として使用されてきましたが、この春から栃木市立文学館として第3の人生を歩んでいます。
この旧町役場を囲むお堀が県庁堀と呼ばれているのは、この場所に栃木県庁が存在していたためです。
県庁は、短期間のうちに宇都宮へ移転。その名とこの県庁堀が、栃木に県庁が存在したことを今に伝えてくれています。
この栃木に県庁が存在したのは、廃藩置県後の1873~84年の10年少し。短期間かつ今から140年近く前のことですが、今なおこうして「県庁」の名が残されているのは、この出来事が地元の方にとって痛撃だったことを伝えてくれている気がします。
宇都宮への移転の事由としては、
1 交通の便と陸軍の存在
日光街道・奥州街道の分岐点に所在する宇都宮が便利であり、
また、陸軍の鎮守府が置かれ、行政機関の有事の際は治安維持が可能であった。
※当時は民権運動(今でいうデモ活動)も多く、特に栃木は盛んであったため、政府の思惑も働いたようです。実際、足尾銅山鉱毒事件で反対運動に当たった田中 正造は、隣接する佐野市出身ですが、下野新聞の編集長として、国会設立を主張しています。
2 県の中央部にあった
下は現在の栃木県の範囲と、宇都宮市(★)、栃木市(●)の位置を示しています。
ご覧のとおり、比較的宇都宮が県域の中心部にあるかと思います。
とはいえ、岐阜県岐阜市や京都府京都市など、県域のはずれに県庁が存在する例もありますから、これは移転派の方便のような気もします。
3 有志による活動
最も大きかったのこちらでしょう。
宇都宮には経済的余裕があり、有志による金銭・土地提供などのバックアップがありました。
また、既存の県庁を移転するという大きなビジョンの下で、周辺の県北地域と共に連帯して移転運動を行っていました。
一方栃木はというと、江戸以来の商業都市でこちらも経済的余裕から生じる教育水準の高さもあって政治に関心を持つ住民が多かったようです。ただ、高いがゆえに、先述の民権運動に力を入れる方も多かったようで、そうした雰囲気が政府から敬遠された、そして移転反対運動に一枚岩になれなかったようです。
以上のようなことから、1884年以降、県庁のあったこの場所に栃木町役場が置かれ、今日に至ります。
開館間もないからか、土曜の午後ですが来館者はまばら。これから認知されていくところでしょうか。
ここで文学館を後にしますが最後に、
置き物のように涼んでいるかもさんを発見(笑)
県庁がなければ、この出会いもなかったんですね。
県庁が移転締まったとはいえ、所在した歴史や所在に至った経済的・文化的な豊かさは現在の栃木にも残っているような気がします。
この後は、現在の市庁舎と市街地を巡り、栃木の今後について考察していこうと思います。
つづく
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