ときわ台って
はじめての投稿は板橋、いや(自称)東京が誇る 高級住宅街 ときわ台のご紹介です。
池袋から東武東上線の普通列車に揺られること10分で到着するのがこのときわ台駅。ちなみに私のスマホでは「東武東上線」と一発変換することができません。それくらいマイナー、いや、知る人ぞ知る近郊の駅です。そして、最近この駅が改修となり、「古くなった」という噂を聞きつけました。とはいえ改修前もご覧の通り、
なかなか趣のある駅舎だったんですけどね。(2017年4月撮影)以前のこちらの駅舎は、1935年の開業当時から増築等を重ねて今に残っていたもの。
だからこそ、改修後の古くなった姿というのが、どうも想像が難しいところですが・・・そんな駅舎の現在の姿、お見せいたしましょう。
なんともシンプルに!
上画像と比較すると、切符売り場があった場所をぶち抜き、改札口にしていることがわかります。
ちなみに、開業当時の写真がこちら
東京駅のレンガ駅舎に負けじ劣らずの復活劇。都内では、国立駅に見られるように、歴史ある駅舎ですら取り壊しの対象になることが多い中、この「マイナーチェンジ」を決断した東武鉄道には拍手を送りたいですね。切符売り場右手外壁には、ギャラリースペース武蔵常盤小径が新たに設置され、この街の歴史に触れることができるようになりました。
ときわ台の歴史
そもそもときわ台地域の歴史を紐解くと、戦前までさかのぼることになります。
当時の東武鉄道は、離れ小島的に存在していた東上線と本丸スカイツリーライン(伊勢崎線)を結ぶ新線西板線を計画。新線と東上線が合流する現在のときわ台のエリアに貨物列車の操車場を造るべく、広大な土地を取得しました。新線の免許も国を申請を終え許可が得られる段階までいきましたが、ここで関東大震災が発生します。
震災後、灰燼に帰した都心部から多くの人々が東京の郊外(現在の北区や板橋区といったエリア)へ逃げ出してゆき、以後、東京郊外は急速に宅地化が進んでいきます。結果として、東武鉄道が計画していた新線の用地買収は難航し、計画は中止。取得が終わっていた操車場用地には、1933~37年にかけて住宅地を造成されることになりました。それが住宅街 ときわ台の歴史のはじまりだったというわけです。
余談ですが西板線が開通していた場合、スカイツリーライン(本線)側の乗り換え駅は西新井となる予定でした。周辺の地図を眺めてみますと、
飛び出た支線 東武大師線がありますが、西側方面に環七沿いを進んでいくとときわ台に辿り着きます。実は大師線もまた西板線の名残だったんですね。
ときわ台の街を散策
東武鉄道は持て余すこととなったこの操車場予定地に、当時の流行でもあった先進的な田園都市を計画し、実行に移します。駅を中心点として放射状に広がる道路、緑地をふんだんに取り入れた区画の整備や歩車分離などの取り組みがそうです。ただ、その中でもときわ台において特筆すべきは、以下2点
クルドサックとロードベイでしょう。
当時、そして今なお、他の街ではあまり目にすることのない特徴を、この街は有しています。というわけでここからは駅から放射状に延びる道路を進み、
駅頭に展示されたこれらのモノクロの風景と、その現在の姿を確認し見比べてみることにしてみます。
ロータリー付近の道路
ではまずは、こちらのBefore/After
建物の配置や道路の規模感等、おおむねかつての面影が残っております。
しかし、そのかつてはいつなのでしょうか。モノクロ写真の左端に映り込んでいる中華屋さんに電話番号が7ケタで記載されておりますね。東京の電話番号が7ケタから8ケタに移行したのが1991年ということなので、それより前の写真ということになろるんでしょうか。東武さんそれかご存知の方、答え合わせをお願いします。
また、タニタの看板がチラホラ見かけられますが、これはちょっと前に有名となったタニタ食堂のタニタさん。本社がこのときわ台にございます。
さてさて、上の写真で左手に分かれる道は駅ロータリへ向かう一方通行道路。一方、右手の道は駅ロータリーから住宅街へ延びる一方通行道路です。ロータリーへ出入りする車が意図的に分離された構造になっているのが興味深いです。地図で見るとちょうどこのあたり。
白いベンチ
続いてこちらのBefore/After
こちらも面影はばっちり残っておりますね!こちらは板橋区立中央図書館前
ただ、なぜか左側にあったベンチが消滅、右側のベンチも新たに座面背面が木製?の独立式のものに付け替えられていますね。コンクリートのベンチは冬場、冷たいでしょうから交換されたのでしょうか。私も毎冬、発熱しないトイレの座面にはヒヤヒヤさせられます。
ちなみにこの図書館は、東上線のお隣駅 上板橋付近にお引越しが決まっているようでして、この景色も近々見納めになるかもしれません。
クルドサック
そしてgoogle map上で、ときわ台の名所扱いになっているのがこちら
おそらくこちらは同一の場所ではありません。ときわ台にはいくつかのクルドサック状の道路がありますが、そうとは知らず、この場所を撮影し満足して帰ってきてしまったのでありました。不覚。
他の街で見られる駅前ロータリーや欧州の街中で見られるラウンドアバウトと同様の思想によるものでしょうが、住宅街にあるのは珍しいのではないでしょうか。トヨタ自動車が同社初の量産車を販売したのが1935年(昭和10年)で、ときわ台の造成は1932~36年にかけて。まだまだ自動車は一般的な存在ではなかった時期に、現代でも使える構造を取り入れている点はやはり特筆に値します。
フットパス
自動車を意識した設計としてはもう一つ、フットパスを取り上げましょう。自動車時代の到来に控えながら、歩行者が安心して通行できる小さな路地が意図的に確保されてます。
こちらも同一地点でなく恐縮ですが、雰囲気はご確認いただけるのではないでしょうか。自動車にも人間にも優しい街並みとなっています。
プロムナードとそこに寄り添うロードベイ
最後はこちらのビフォー・アフター
プロムナードは並木道、ロードベイ初めて耳にしたのですが、
道路沿いの張り出した緑地
というような意味なんだそうです。ただこの単語、調べてもここときわ台、しかもこの場所でしか利用例が見られませんでしたので、普通名詞ではなく固有名詞という認識が良いでしょうか。ロードベイはこのあたりにございます。
また、ときわ台は、先述のプロムナードがほぼ環状に走っているのが大きな特徴でもあります。
そう、ほぼ
↓↓↓↓↓
google mapをご覧ください。時計で言うならば、12時から3時のあたりが欠けた「環状」になっているのです。この欠落したプロムナードの末端は、またの機会に覗いてみようと思います。
おまけ1 クルドサック後日談
後日、上で示した場所にやって参りました。立派な並木道は、確かに途切れておりますね。用地買収が上手くいかなかったのか、はたまた予算不足か。調べてみましたが結局真相不明。もしご存じの方がいたらご一報ください。
おまけ② 帝都幼稚園
て、ていと・・・
今の時代にこの単語を見ることになろうとは。出身であれば、履歴書にも書きたくなるような格好よさです。最近まで京王帝都電鉄が京王電鉄になり、帝都高速度交通営団が東京メトロになる中で、現代でも帝都を正式に名乗る希少な存在ではないでしょうか。
帝都幼稚園は前身の学校時代も含めると、ときわ台造成と時を同じく1937年(昭和12年)に運営が始まった伝統ある幼稚園です。日中戦争がはじまり、第二次大戦へ向かいゆく時代、帝都の名称が付けられたことも頷けます。
と、数々の街づくりの先進的な試みが随所に見られ、それらが今もなお街に溶け込んで、落ち着きのある空間を造り出しているときわ台のご紹介でした。そして、2022年1月には、とうとうアド街デビューを果たしたときわ台。池袋から電車で10分。休日のちょっとした散策にもお手頃ですので、その不思議な街並みに触れられてみてください。
おしまい
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