桐生の鉄道編はこちら
※2022年7月3日(日)撮影
都内から電車でおよそ2時間。群馬県の西南部に位置する桐生市。
人口は11万5000人、県内5番目の規模でございます。
「かつては賑わった」という枕詞
まずは駅前商店街を見ていきます。本章のタイトルにしたとおり、多分に漏れず・・という状況でしょうか。
人通りはチラホラという具合いで、かろうじて中心街の雰囲気が残っています。というのも末広町通りの中央に位置する、
この存在が大きいでしょう。「Nagasakiya」の文字がうっすら残っています。
衣料品を武器とした総合スーパーであった長崎屋。現在のイオンのように、地方都市において重要な買い物先でありましたが、外部環境の変化への対応が遅れた結果、80~90年代に経営が悪化。2007(平成19)年にドン・キホーテを運営するパン・パシフィック・インターナショナルHDの傘下に入っています。
旅をしていると旧長崎屋の建物を見る機会が多くあり、この青梅駅前の跡地は屋上にマークまで綺麗に残っておりなかなか見ごたえがございます。
路地で見つけた「糸屋」の文字
気になる路地があったので、東西に走る末広町通りを折れ、北側へ進路を変えてみます。
左手の吉野鮨さんはこの場所で80年近く桐生と共に歴史を歩んできたお店。
ただ、食べログに残されたコメントによれば、名門 桐生高校野球部の関係者が営むお店でしたが、2017(平成29)年「おあいそ」となったようです。現在の甲子園の常連校 桐生第一高校も所在し、野球が盛んなことから球都とも称される桐生らしいお店が消えてしまったのは残念なことです。
ちなみに、球都を名乗る街には他に、千葉県木更津市、福井県敦賀市なんだそう。
ユニークな装飾が施されておりますね。後ほど紹介しますが、桐生の街にはこうした「ちょっとしたオシャレ」をしたお店が多く見られ、勝手に織物の街らしいなと感じていたのでした。魅せ方が重要になる商品ですからね。
一番ではなく五十番。謙遜した命名なのでしょうか。調べると世界の王貞治のご両親が営んでいた中華屋さんが五十番だったようで、それを参考にした可能性もありますかね。ただ王さんを好んでいれば、その背番号1を店名にもしそうですが。どなたか教えてください。
糸屋通りを抜けますが、ちょっくら寄り道。
戦前、繊維業界で絹(製糸業)と双璧をなしたのが綿(紡績業)です。糸屋通りの近くということもあり、妄想が膨らんでしまいます。
そんなことを考えながらしばらく歩くと目的の場所へ。
かなり年季が入っております、こちらは1932(昭和7)年に完成した旧水道事務所。
増築を重ねながら、第二の人生を送っているという感じでしょうか。下手にリニューアルされることなく残っているのがgoodです。そして、そのお隣にあるのが、
1935(昭和10)年、桐生織物同業組合事務所として完成したこちら。現在は無料の資料館となっています。
ちょうどこれらが建てられた頃、桐生の織物は最盛期を迎えます。一説によると当時の絹織物の出荷額は、政府予算の約10%。これは現在の価値に換算すると約10兆円で、かなりインパクトがありますね。
メインストリート 本町通り
ここからは中心地を巡っていきます。
まず目を引いたのがギフトショップの入るこちら。1921(大正10)年に立てられた金善ビルです。戦前は金善繊維の事務所として使用されておりました。堅牢かつ壮麗な佇まいは銀行のようで、桐生でもかなりのイケメン建築です。
窓枠の上下に交互に配されたブロックがオシャレですなぁ。こちら、一見巨大な長屋風建築に見えますが、航空写真を見るとその真の姿が明らかに。
ビルがたくさん!
5つほどの細長いビルから構成されているのが分かります。これは想像ですが、外観を同一とし大通りの景観に配慮しつつ、所有権を各建物に残すことで、改築・取り壊しを各自の裁量で行えるようにしたのではないでしょうか。
景観に疎い日本の都市が多い中、数十年前からこのような先進的な取り組みがされていたのだから、すごいことです。
建物の扱いは、テナントが増えるほど意思統一が難しくなり、修繕・改築が難航。気づけば時代に取り残され・・というケースは多いでしょうからね。
1954(昭和29)年創業の料理屋さんです。ハレの日、ちょっとした接待などに使われる地元密着のお店さんでしょうか。個室・宴会場を備えているとはいえ、ちょっと規模が大きいですよね。
実はこちらは、1982(昭和57)年まで髙島屋ストアとして使われていた建物。地元の方のブログによれば、1階に食料品が、2階以上に生活用品が揃うといった、現在の総合スーパーのような店舗だったようです。ただ、駐車場がなく、桐生の衰退も重なったのでしょうか、食料品売り場で鮮魚店を営んでいた美喜仁さんがそのご縁でか、この建物を引き継ぎ、現在に至っているようです。
現在では人口10万人規模の都市に著名百貨店というのはまず見ませんから、当時は桐生が魅力的な市場と見込まれていたんでしょう。
2階へのアプローチがなんとも楽し気ですね。レストラン 「ワイン&イタリアンPrimaBella」、1階にバー?が入っていたようですが、現在は美容室のみが細々と営業しておりました。
1984(昭和59)年は、バブルのニオイがし始めた頃でしょうか。イタ飯がもてはやされた当時、外観・立地共に素晴らしいこのお店も人気店だったのではないでしょうか。
実際桐生が正真正銘の黄金期を迎えたのは、戦前~戦後まもなくにかけてでした。
戦後復興期の織物特需があったのでしょうか。ガチャンと機を織れば万万の儲けが出たという「ガチャマン景気」に沸き、人口は高崎、前橋を凌ぎ県内で第一位となります。稼げる場所に人は集まってきますからね。
ただ、そんなピークと時を変わらずして、衣服の洋化と輸出入の自由化による廉価な海外製品との競合が始まります。そうして、桐生の栄華は結びを迎えたのであります。
とはいえ当時の技術、文化をはじめ、建物などがそれらを今に伝えてくれています。
ここからは個人商店が多いのですが、なかなかオシャレな建物が多く見られる区画です。うだつが上がるではないですが、相応の装飾ができるというのは経済が豊かであった裏返しでもありましょう。それらをご紹介していきます。
ポテト入りで有名な焼きそば屋さん。お味はいかに。
(旅のたびに思いますが、旅先では胃袋の処理能力が圧倒的に不足する。)
創業はなんと1831(天保元)年。200年近い歴史を感じさせる木造建築となっております。
そしてこの泉新さんを境に、この先の重伝建地区にかけてより歴史のある建築が増えていきます。
髙島屋に続き三越まで!
重伝建 桐生新町
三越を過ぎて、矢野本店までやってまいりました。1916年(大正5年)に完成した木造店舗はキリンビールの看板がアクセント。ここからは新町と呼ばれるエリアで街並みの雰囲気が変わってきます。重要伝統的建造物群保存地区に選定、「かかあ天下-ぐんまの絹物語-」の構成文化財として日本遺産にも認定されている一帯は、1600年前後に徳川家康の家臣だった大久保長安の命で街づくりが進められた当時の区画を今に伝えてくれています。
矢野商店の倉庫群です。近江商人が創業し、以後醸造業、呉服業を取り扱ってきた矢野本店は、株式会社矢野という化学品専門商社として現在も商いを続けています。建物自体は市に譲渡され、桐生市有鄰館という文化発信拠点になっています。
ここまでの本町通りとは異なる雰囲気を感じていただけるのではないでしょうか。旧来の街並みが新町のエリア、そこから都市化が進む中で桐生駅方面の本町通りに街並みが広がってきたという感じではないでしょうか。木造家屋や石倉、織物工場が多く残る街並みに進んでいきます。
まずは旧曽我織物工場。1922年(大正11年)に建設された石造りの工場は1970年(昭和45年)まで操業していたようです。
織物工場の特徴でもあって、この桐生のシンボルある美しい鋸屋根を見ることができるのが嬉しいです。屋根の形状は自然光の採光や背丈のある織物機械の設置において有利だそうで、最盛期には市内に約350棟の工場がありました。(現在も約260棟が残っています。)
続いて一の湯さん。散策の中で目に留まってしまういかにも銭湯らしい外見です。もともと労働者が利用する風呂場として建てられ、公衆浴場に転身、2018年末に廃業したのち、2023年に有志の方により再開となっています。写真は廃業中の様子のため、また雰囲気が変わっているのでしょうか。
森合資会社事務所跡は、タイル、瓦を利用した和洋折衷スタイルが印象深いです。1914年(大正3年)の完成で、ちょうど第一次大戦が始まった頃です。戦争に伴う欧州の物資不足で、桐生織物の生産高は5倍になったといいますから、そんな桐生の賑わいから今日までの変遷を見守ってきたわけですね。
旧株式会社金芳織物工場鋸屋根工場は、現在ベーカリーカフェ・レンガとして活用されています。市内に現存する唯一の煉瓦製鋸屋根建築です。
本町通りの突き当りには桐生天満宮。桐生の街並みを見守っています。
機神神社とはいかにも織都らしいですね。
天満宮からもう少し進むと群馬大学理工学部キャンパスです。
群馬大学といえば県の中心都市である高崎や前橋にキャンパスがありそうなイメージだったのでこの場所にあるのが意外でした。歴史をさかのぼると1915年(大正4年)に設立された旧桐生高等染織学校を発祥としているそうで、やはりここでも織物の歴史に触れることになります。
設立当時の本館の一部と講堂が現在も残されていて御年は110歳でございます。
日清戦争以降の工業化の進展によって、織物は主要な輸出品として著しい成長をしていました。時の政府は全国6都市に模範工場と教育機関の設置し、さらなる生産性向上を図ります。国の威信をかけた取り組み、そして桐生が全国有数の産業都市だったことを今に伝えてくれています。
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