日鉱記念館で一山一家の温かな精神に触れる | 日立鉱山今昔物語

関東

スターバックスはシアトル、日本製鉄は福岡県 八幡

いずれもその企業が創業した街です。シアトルは海沿いのお洒落な街。コーヒー片手に友人と散策してみたいですね。一方、八幡は日本の鉄が生まれた街。重厚な工場が立ち並び、経済産業史を紐解く一人旅に向いてそうです。

ただ、このように、創業の地と企業のイメージは切っても切り離せないのではないでしょうか。街が企業を育て、企業もまた街を育てる。そんな関係は成り立ちそうです。

そんなわけで今回は、茨城県日立市を散策します。日立製作所・ENEOSグループを生み出した日立鉱山があった街です。
これまで近場では旅情もクソもないと、遠方の鉱山跡を好んで旅してきました。長崎は池島、福岡は三池、そして北海道は夕張と。いつでも行けると思うと行かないのが人間の性です。ただ、思えば身近なところに経済史に燦然と名を刻む”名山”があったわけです。

思えば我が家の洗濯機はHITACHI製。日ごろのお礼をせねばなりません。また後世のために、灯台下暗しと残した先人の想いを無駄にするわけにはいきません。かくしてお盆休みに出かけてきたのでありました。(2022年8月10日撮影)

山中の日鉱記念館

東京から150㎞、車で約2時間。麓の日立中央ICから緑をかき分けて、峠にさしかかり、エンジンも一息つけるかという場所にそれは建っていました。

日鉱記念館

日鉱記念館

日立鉱山の跡地に建つ日鉱記念館です。茫然とした緑の眺めに、半紙に描かれた「一」の字のように建物が映えています。このデザインを手がけた松田平田設計によれば
地域において事業を営んできた人々の強い意思と開拓精神とをシンボリックに表現
しているとのこと。振り返れば、

日立鉱山第一竪坑

第一竪坑。1906(明治39)年から閉山まで出鉱を支えた。

山のランドマーク、竪坑も見えます。高まって参りました。では、館内に入ってみましょう。

入口の案内板

ここにあるとおり日立鉱山のすべての歴史は1905(明治38)年、久原房之助(くはらふさのすけ)が赤沢と呼ばれていた銅山を購入したことに始まります。記念館の展示品にはその際の売買契約書なんかもあり、同社の保管体制に驚くわけです。ここでお伝えせねばならないのが、この施設が

入館無料

かつ

全館撮影OK

ということ。現在はENEOSグループの一端、JX金属の管理施設となっており、広報も兼ねているとはいえ太っ腹すぎますな。

日鉱記念館展示

1階展示室

創業からの歩みをはじめ、鉱山の生活や国内外のエネルギー情勢の移り変わりなどを学ぶことができます。

鉱山の出鉱量、銅生産量と従業員推移

例えばこのグラフ。日立鉱山が戦前は右肩上がりで成長していたことが分かります。その中で個人的な見どころは3つで、①戦中の生産増大②戦後の急落③出鉱の激減と生産の急拡大でしょうか。

①は国策による依頼(命令)による増産が、②は①の乱獲により採掘体制が荒れ果てた反動や人員の戦争による出鉱量の減少が如実に示されていること、そして③は貿易の自由化で海外産の銅に価格面で太刀打ちができなくなった鉱山が、精錬中心へ戦略転換を迫られたことが分かることでしょうか。

鉱道の再現は最低限だ。

先ほどのグラフを見て納得したのは他の鉱山を訪れた際、現地の方に伺った話です。
国は身勝手だ。戦中に無謀な増産要請に必死で応えたのに、戦後エネルギー転換・貿易の自由化を理由にヤマを切り捨てた
日立の山もまた時代の流れに従い、1981(昭和56)年に閉山を迎えたのでした。

さて、その閉山までの歴史の中でも、気になるのは往年の日立の人々の暮らしです。最盛期は水戸を超え、県内一の20万の人口を誇ったといいます。

1931(昭和11)年の地図

今いる記念館が地図でいうと左端あたり。右端が太平洋です。海沿いの日立駅から地図中央にある精錬所にかけてと、現記念館から少し山を下ったあたりに人々の生活がありました。

日立鉱山の強みとして、海への近さが挙げられます。足尾や別子と言った国内の競合銅山と比べ、輸送や人々の生活面で大きなメリットがあるわけです。

往年の銅精錬所。右手の山頂に写るのが大煙突である。

大雄院(だいおういん)と呼ばれた精錬所付近の様子は圧巻ですね。海沿いの日立駅と鉱山電車という私営のレールで結ばれ、鉱石や人々の通勤を支えていました。この場所は現在でもJX金属が事業を行っております。

鉱員や家族が暮らした山間の集落。現在これらは全て自然に還っている。

鉱山電車の通勤風景や広場に会する消防隊。なんとも都会的な賑わいだ。

昨今では地方の県庁所在地でも見ることが少なくなった人の山。これも面白いのですが、中でもお気に入りがこちら。

禁酒を勧めるチラシ

禁酒は国難打開の早道!

不義理も、貧乏も、借金も、犯罪も、酒が導き、酒が招き、酒が生む。

ひどい言われようであります笑
これには組織統制の側面もあり、当時は泥酔した鉱員同士の喧嘩やトラブル、欠勤などが問題になっていたようで、世界恐慌から始まる昭和恐慌の時期も重なり、かような運動が注目されていたみたいですね。

とはいえ、まさかこれほど嫌われた酒よりもタバコが先に市民権を制限されることになろうとは、当時の方々も思わなかったでしょう。

記念館2階から麓方面を見る

眼下の駐車場にはかつていくつもの事務所などが建ち並んでおりました。

昭和30年代の同地。戦後の衰退期を乗り越えた頃か。

削岩機美術館

日鉱記念館の鉱山資料館

鉱山資料館。記念館のすぐそばに建っている。

こちらには主に鉱山で用いられていた機器類が展示されています。建物は1944(昭和19)年に完成した木造のコンプレッサー室を転用したもので、

鉱山資料館館内

木造ながら頼もしい造りをしています。

広めの体育館ほどの広さはあろうか

真夏のもわっとした空間に潤滑油のニオイが漂っております。より現場の雰囲気に近い感じでしょうか。

特筆すべきは削岩機の数

削岩機マニアにはたまらない(のだろう)

日鉱記念館全景

駐車場から振り返り

かれこれ2時間30分近く見学してしまいました。これで無料とは。大満足でございました。
通常の観光であれば1時間ほどで一通りの展示は楽しめる気がします。

https://www.nmm.jx-group.co.jp/museum/

さて、展示に満足はしたものの、やはり往年の様子を見た後で気になってしまうのが現在の様子。現在の時刻は14時30分。夕刻までの残された時間で、展示にあった

5階建てのアパートが居並ぶ

この写真の現在地を訪問することにします。

つづく

日立鉱山 | 大煙突が見守った一山一家の街並みを巡る
前回はこちら 一本杉が見守った暮らし 日鉱記念館で見かけたこちらの風景を求め、山を下ってゆきます。この写真では判読できませんが、地図上に一本杉の文字が見えました。こちらを頼りに探していきます。一本杉は記念館までの道中に思...

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