本日は2024年3月2日⁽土⁾、明延鉱山をめぐっていきます。1987年(昭和62年)に閉山となるまで、錫の採掘量で日本一を誇った巨大鉱山は、今は兵庫県の山奥でひっそりと佇んでいるということで、その様子を見に行こうという算段です。今回はネット上に記事が多数掲載されている坑道そのものではなく、鉱山経営を支え続けた明延の街並みに焦点を置いていこうと思います。
明延鉱山探検坑道
姫路から車で2時間でやってきました、明延鉱山です。道中は雪の積もる山道で電波の入らない場所もありまして到着の嬉しさ、安堵感はひとしおであります。この坑口は、探検坑道のみならず、明延の街の入口にもなっており、ここから本日の散策ははじまります。
明治以降の鉱山開発の走りとなったのがこの明延、中瀬、そして生野といった播但地区の鉱山でした。鉱山群は、近代的な道路・鉄道で姫路に近い飾磨港と結ばれ、鉱山資源や生活物資が往来し歴史を紡いでいきました。その道筋が「鉱石の道」として日本遺産に認定されています。
探検坑道の出口はこちら、世谷通洞坑です。入口の人や鉄道サイズと異なり、出口は大型車両が入れそうな大きな坑口でなかなかの迫力です。坑道前には、
鉱山学習館(旧明延鉱山西部採掘事務所)と、
明延鉱山のシンボル、一円電車がお出迎えしてくれます。高さは人の背丈ほど、レール幅もJRの在来線よりもひと一回りもふた回りも狭い明延とお隣の神子畑(みこばた)を結ぶ明神電車という鉱山関連物資を運んだ小さなトロッコ列車なのですが、乗車賃1円で住民も乗車することができました。廃止後30年近く経つのですが、明延の街中では一円電車を様々な場面で見かけることができまして、多くの住民の方から慕われた存在だったことが伺えます。
一方で暗い歴史を持つのは国内鉱山に共通する一面でしょうか。
明延の住まい
続いて街中へ向かっていきましょう。
道中の右窓、明延川沿いの区画に現れた建物群がかなりのいい味を出しており、これは車を停めざるをえません。最盛期のには4,100名が暮らした明延。その時代、1954年(昭和29年)に社宅として整備された坂ノ谷プレコン住宅と呼ばれる住居です。マンションの走りとなった歴史的建築のようで、google map上でもプレコン団地(プレキャストコンクリート団地)として登録され、界隈の人々が熱いコメントを綴られております。
お部屋の窓が開いてしまっていますが、他ののお部屋には生活の匂いが残っておりました。鉱山の閉山後もそこに残された明延の暮らしは静かに続いているようです。
付近の明延川には崩落した階段も。
こちらは長屋スタイルのプレコン住宅です。住宅前には害獣除けが設けられており、現役で活躍中ということでしょう。
鉱山の発展、安全を支え続けた山神宮跡 山神さん。閉山とともに拝殿は解体されてしまい、今は石碑が残るのみとなっています。
山神さんの隣には山あいの町らしからぬ、巨大屋根の建物が!北海道の新球場 エスコンフィールドのような大屋根はなかなかです。こちらはあけのべドーム 森の館、かつての明延小学校の校庭跡地です。この日は野球を楽しむ方が利用されておりまして、今でも地域の憩いの場となっています。
鉱山に至る道
明延小学校前から少し進むと右手に見えてくるのがこちら。嬉しい看板が残されているではありませんか!車道と歩道の看板はちょっとわかりにくいぞ。
1934年(昭和9年)に建設された第一浴場。明延に存在した6つの共同浴場の1つで、鉱員やその家族らは無料で利用することができました。地域の方々の熱意もあり解体されることなく今なお保存され続けており、地域に癒しの時間を提供していたことが伺える。
段々になった区画は独身寮 明和寮の跡地。浴場前の一等地を若手に提供してくれていたんですね。優しい企業じゃありませんか。
さらに進むと飯尾商店さん、
その向かいはテニスコートとなっています。往年は鉱員や家族の方がリフレッシュしていたんでしょうなぁ。そしてこの先がお待たせしました、明延鉱山の中心地跡が、、
あれ・・行き止まり。。
選鉱場やインクラインの残骸を見ることができたようなのですが、通行止めになっていました。残念でありますが街並みに引き返すことにしましょう。ただ、通行止めの脇には、
「明延鉱業所」が!おそらく今後、建て替えられることはないでしょう。それは目的を失ったからというのもありますが、地域の人々にとってこの5文字で感ずるものもあるはずでしょうから。
明延の街並み
鉱山に至る道を引き返し、明延の本町通りと呼ばれている個人商店が軒を連ねていた一角をめぐっていきます。明治期に明延で大規模な錫鉱脈が発見される以前から集落が形成されていた地区だそうで、明延川に張り出した木造建築。山間に多くの人々が土地を求めた強い意志を感じます。
明延鉱山町の街並み。静謐。雪に耐え忍んでいるかのようです。
なんともおしゃれなたばこ 小林さん!たまりません。
この外見に惹かれてついついタバコを買ってしまった人もいたんじゃないかなぁ。
正垣百貨店さん。。跡だろうなぁ。但馬名産・・・・読めんなぁ。渓流魚なんかも取り扱っていたんでしょうか。
来た道を振り返り。
明延で算出した銀・銅で鋳造されたという両松寺さんの梵鐘。1595年に作られたものといいます。
500年以上前にこれほどの金属を製錬、造形できたのが信じられません。当時の人々にとって、梵鐘の音色はさぞ神秘的に聞こえていたんでしょうなぁ。
明延川を渡り、本町の南側 桜ヶ丘と呼ばれた地区にやってきました。手前が明延振興館、明延観光の拠点施設となっており、奥に見えるのは明延購買会跡。現在はMMCリョウテック株式会社 明延工場となっており、土曜日のこの日も稼働されているようでした。
購買会時代はこのような食品から衣類、家電製品まで取り扱うデパート的な存在だったようですね。現在の明延にはスーパーやコンビニは見当たらず、悲しいですが隔世の感があります。
向かいには明延協和会館跡。1957年(昭和32年)の完成です。1,100人が収容可能な劇場だったようで、最盛期には月に10本近くの映画が上映されていたそうです。購買会でつまみと飲み物を調達して、協和会館で映画を見て、第一浴場でリフレッシュと。当時の明延の休日はそんな具合だったのでしょうか。
協和会館の北側には再び明延のシンボル!こちらのあけのべ一円電車ひろばでは月に数回、一円電車体験乗車会を開催中。あいにく冬季は休業のようですが、今年は4月から11月までの間、楽しむことができそうです。運賃は大人300円、子供は1円。当時の方々のように1円を握りしめて乗ってみたいものですな。
体験乗車会の駐車場となっているのは明延病院跡地。そのお隣は現役の南谷郵便局ですが、
懐かしき郵政民営化
無二の木造長屋
最後に明延の北端部に位置する北星エリアにやってきました。1936年(昭和11年)ごろに建てられた北星長屋社宅と呼ばれる木造長屋がお出迎えしてくれます。よく今まで残ってくれていましたね。
トタン屋根が雨でにぎやかです。長屋には、5世帯が1つ屋根の下に暮らしておりました。往年は明延川の両岸に30棟以上の長屋が建っていたようですが、現在では4棟が残るのみ。とはいえ誰かが暮らしていてもおかしくないような綺麗な状態で複数棟残っているのは全国的にも珍しい気がします。
街の入口でも見かけた二階建てプレコン住宅がこちらにも。北星住宅を見下ろす高台に位置し、住宅からの往年の眺めはなかなかだったのでしょう。明延はプレコンに始まりプレコンに終わる。
北星ガソリンスタンド跡。
北星住宅の全景で今回の旅は終了です。但馬の山奥で往年の賑わいを静かに守り続けている明延の街並み。アクセスはなかなか難しい場所ではありますが、それゆえに残されたものがあるように感じます。昭和
アクセス
- 中国自動車道 山崎ICから60分
└姫路駅まで車で120分、大阪まで車で2時間30分、名古屋まで車で4時間30分 - 播但連絡道路 朝来ICから60分
- 北近畿豊岡自動車道 養父ICから40分
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