原宿 東郷神社 | 海軍元帥と雑踏のオアシス

東郷神社の社殿 関東

2020年、収まることのないコロナ禍。

心地よい気候となってきて、外出へ動き出そうとする足を懸命に抑え込む日々であります。
この戦争が終わったら、旅に出かけようと思うんだ・・・という死亡フラグはしまっておきましょう。

というわけで、今回は蔵出し企画ということで、2019年9月訪れた原宿界隈をご紹介したいと思います。

原宿にオアシス?

平時の休日であれば、人、人&人

竹下通りなぞに入ろうものなら身動きが取れなくなるほど混雑する原宿の街。人の多もさることながら、狭隘な路地の多さと林立する路面店が、より混雑に拍車をかけております。人混みがどうも苦手な私にとっては、なかなか近づきがたい街でありました。ところが、ある日、グーグルマップを眺めていると、そんなイメージとは異なる現実を知ることになりました。

原宿に大きな池が!

原宿は、代々木公園を除けば、緑や自然を堪能できる空間がない場所だと思っていましたが、どうやらここには、そんな街のオアシスとなるような空間がありそうです。新たな顔を見ることになるか。ということで、実際に行ってまいりました。

Togo Shrine

東郷神社鳥居

グーグルマップ上の水場を求めてたどり着いたのは、こちら。東郷神社です。主祭神は、日露戦争における日本海海戦で巨国ロシアのバルチック艦隊を打ち破り、日本の勝利を手繰り寄せた海軍元帥 東郷平八郎

鳥居の脇には東郷幼稚園。寺社仏閣と幼稚園が抱き合わせで建てられている光景を時折目にしますが、なぜでしょうかね。江戸時代には寺子屋なんてのもありましたから、その文化が今日まで受け継がれて来たって感じですかね

東郷幼稚園

厳かな名前と裏腹にかわいらしい配色。どこでもドアみたいで、子どもだったら嬉しい色使いですねぇ

Zが示すもの

東郷神社の境内とZ旗

社殿へ向かう階段には、カラフルな文様が描かれたのぼり旗が。実はこの模様、東郷を彷彿させるシンボルの1つであるZ旗(ぜっとき)と呼ばれる国際信号旗(しんごうき)です。


国際信号旗とは、様々な模様の旗を順番に掲揚し、その順番によって海上の船舶同士が意思疎通を図る手段として用いられるものです。東郷は、日本海海戦に臨むにあたり、乗艦した旗艦三笠から、指揮する日本の連合艦隊各艦に対し、この国際信号旗でメッセージを発します。

「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」

その際、掲げられたのが先述したZ旗。兵士の士気を高め、歴史的勝利の狼煙となったZ旗は、以後、東郷のシンボル、そして後に引くことができない決戦の象徴として、用いられるようになったのでした。

噂には聞いておりましたが、神社という静謐な空間にカラフルなZ旗。なんとも不思議な光景でありました。ちなみに東郷が乗艦していた戦艦三笠は、現在、神奈川県横須賀市の三笠公園にて保存されており、当時に想いを馳せることができます。写真は別日に撮影したもの

戦艦三笠

120年ほど前、この船が戦場となった日本海対馬沖を航行し、ロシア艦と国の存亡をかけて交戦していたとは

Z旗説明三笠公園

三笠公園にはZ旗の説明もありました。

平和を祈って

話は東郷神社に戻りまして、こちらは潜水艦殉国碑。先の大戦において、潜水艦に乗艦中に亡くなられた方々の慰霊碑。潜水艦の断面や魚雷を模した石碑が置かれております。

海軍特年兵之碑

殉国碑に相対して置かれているのが、海軍特年兵之碑

特年兵とは、海軍特別少年兵と呼ばれる14歳以上16歳未満の兵士達のことだそうです。現在で言えば、中学2年生から高校1年生。この原宿に集まる若者たちと、まさに同じ年代ではないでしょうか。肉体的、精神的にも到底大人とは言えない若者たちが、過酷な戦場で戦い、およそ3,200名が命を落としたのだそう。

国の未来を担う若者たちの命を奪ってまでも、戦争を続ける判断がなされる状況、地獄としか言いようがありません。

あゝ特年兵香淳皇后

背面には、昭和天皇の皇后、香淳皇后が詠んだ「あゝ特年兵」の歌碑が

あゝ特年兵
作詞 山口純
作曲 三島秀記時代はどんなに 変わっても
胸にながれる 魂は
いついつまでも 咲き香る
真実の平和を 祈りつゝ
燃えた生命よ あゝ 特年兵
戦争のこわさも その意味も
知らないまゝで 童顔に
お国のため の 合言葉
一ずに抱きしめ 散った花
十四才の あゝ 夢哀し

平田青 書

二度とこのようなことがあってはなりません
碑銘を記したのは、元海軍大将・大臣 野村直邦
この方は、いくつか興味深い記録を持つ方です。
1つは、国務大臣としての最短在任期間の記録
サイパン陥落を受けて辞任した嶋田繁太郎の後任として就任しますが、その後に内閣自体も総辞職。
次の小磯内閣の海軍大臣に米内光政が就任するまでの6日間だけ大臣を務めることになりました。一週間大臣とでも言いましょうか。
もう1つは、方言によって米軍を惑わした記録
ヒトラーから寄贈されたUボートをドイツから日本へ運ぶ仕事を引き受けた野村直邦。
出発する時に、その旨を本土へ知らせる必要がありました。ただ、電話を用いると、英米などの敵陣に盗聴される恐れがありました。どうしたものか・・・
そこで、故郷の鹿児島弁で話すことを思い立ちます。後の記録では、当初の懸念どおり、野村の会話は米側に盗聴されていたようですが、思惑どおり米側はその内容を理解することができないばかりか、日本語ということすら分からなかったんだそうです。すごい。
実は、自分も青森に行った際、用足しをしながら会話する県民の会話をまったく聞き取れなかった経験があります。世の都市伝説と思っていましたが、あれはショッキングな経験でした。きっと彼らは標準語も使いこなせるでしょうから、すごいもんです。話がそれましたが、ここからいよいよ本殿に向かいますよ

勝利の神は、神にはなりたくなかった

東郷神社随神門
正面の参道までやって参りました。神社の門のことを随神門というらしいですね。
9月とはいえ日差しはまだ、夏真っ只中というかんじ。白い参道に反射して、境内が輝いております。
東郷神社は、東郷が亡くなった6年後、1940年に全国からの献金・要望を受けて創建されました。ただ、東郷本人がそれを望んでいたわけでもなかったというのがまた興味深いです。
明治天皇の崩御を受けて自刃した乃木希典を祀る乃木神社が建立された際、東郷は、東郷の死後、同様な計画があると耳にします。そして、やめてくれ」と強く懇願したというのです。が、その想いは、結局大衆の声や戦争へ突き進む時代の波に打ち消され、ついに東郷神社は完成してしまったのでした。
東郷神社本殿
こちらが本殿白、赤、青の鮮やかな眺め。赤い絨毯によって、より厳かな雰囲気になっています。
東郷神社の社殿
今回、東郷神社を訪れ、東郷平八郎の後半生を改めて知るいい機会になりました。
が、それにも増して、印象的だったのが、
東郷の意思に反した創建を後押しした当時の空気感
そして
石碑に記された平和・慰霊の想い
でしょうか。
東郷が国を守った英雄であるのは紛れもない事実です。一方で、大衆や後世の軍人たちがその成功体験の余韻から抜け出すことができなかったこと、そしてその結果、凄惨な戦争が引き起こされたこと、その一連の歴史、全てと向き合うことができるのが、この東郷神社だと感じました。
興奮から鎮魂に至った1900年台の前半期。日本が辿った目まぐるしい50年を、後世に伝えていってもらいたいところです。さてさて、東郷神社を後にし、隣接する東郷記念館へ向かいます。

いざオアシス

勝利の神様を脇目に
東郷記念館
結婚式場として名高い東郷記念館
東郷記念館
目の前には、今回の来訪のきっかけとなった大きな池が。この場所は一般の見学者も入ることができますが、時折、式の途中の記念撮影に使われるらしく、その時だけ一瞬、立ち入りが制限されます。
原宿というアクセスが良好な場所にありながら、静寂の中、自然に囲まれながら式を執り行えるのは悪くありませんね。
東郷記念館の池とコイ
モスグリーンに映える錦鯉さん。なんという平和な眺め。肩がぶつかりそうなほど人に溢れる竹下通りとは、まるで別世界です。原宿にこんなオアシスがあるとは知りませんでした。
水交神社鳥居
かつて築地にあった海軍用地内の神社で使われた鳥居なんだとか。
ちなみに少し話はそれますが、江田島の旧海軍兵学校で聞いた話。かつて海軍兵学校もこの築地の地にあったらしいんです。ところが、学生という生き物は、隙あらば遊びに出かけます。築地の近くには、日本随一の繁華街、銀座があるわけです。ということであとは語るまでもないですね笑
結局、「教育上芳しくない」となり、海軍兵学校は遥か西方、広島県は江田島に移転することとなったようです。当時の学生の絶望は、相当なものだったことでしょう。
明治通り側に向かっていき、
東郷神社入口
東郷神社の門柱にて、今回は終了とさせていただきます。
原宿のオアシス、いかがでしょうか。こじんまりした敷地ではありますが、なかなか見どころの満載で、また、原宿の新たな一面見ることができた場所でした。それでは御機嫌よう
おしまい

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