2019年8月11日、島根県津和野を後にして再び日本海側を目指します。
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津和野から萩までは車で1時間ほどで、主要な観光ルートとなっています。
散策は萩城から
ご覧のとおり天守閣がありません。維新後の明治7年の廃城令で取り壊されています。明治政府の中心となった長州お膝元でも容赦なくやってしまったんですね。
長州藩 毛利氏の居城であった萩城は、お堀で防衛力を高めている平城、そして丘陵などの標高を活かして攻め込みにくくした山城の特徴を併せ持つ平山城に分類されるお城です。攻め込む兵士の立場になってみると、写真から攻略の難しさが伝わるのではないでしょうか。ただ、それだけにとどまらないのがこの萩城
地図をご覧ください。萩の街は三角州上にある天然の要害でもあるのです。
戦国時代、中国地方全域で絶大な勢力を誇った毛利氏でしたが関ヶ原の合戦での敗北。周防・長門国(現在の山口県周辺)に押し込められ、これまで拠点としていた広島城に代る城郭が必要となりました。そこで交通の要衝であった現在の山口市付近に築城を計画します。
しかし時の幕府はそれを認めず、日本海側の辺境の地 萩への築城を命じます。これは幕府が毛利氏の力を評価しており、脅威とならない場所にやっておきたいという意図があったためだと言われています。さすが徳川家、徹底しております。ただ、そんな当時の幕府の懸念は、およそ260年の時を経て、戊辰戦争で現実となるわけですありました。
かわいらしいなまったく
お城の近くには遊覧船乗り場があり、40分の遊覧で水面に近い位置から萩の街を眺めることができます。
こちらは萩城址近くにある武家屋敷跡。萩の街は碁盤目状に分かりやすく区分されていて、西側から順に、萩城→上級武家屋敷→中・下級武家屋敷と区画されていました。
写真はその中でも堀内と呼ばれる上級武士の屋敷があったエリア
外堀を境に居住区域が区分されていまして、土地区画の大きさの違いからもそれが分かるかと思います。
国の重要伝統的建造物群保存地区や明治日本産業革命遺産として世界遺産にも指定されています。
では維新に関わった伊藤博文などのの旧宅や松下村塾はどうかというと、赤い星マークのように萩城へのアクセスは少し不便そうですね。このように萩の地図からも、倒幕運動が権力内ではなく、権力外の庶民層によるものだったことが分かります。
昔から変わったのは電柱くらいかもしれませんね。どの路地も良い雰囲気で、適度に景色も変わる小さくまとまった街並みです。
「曲がり角の先はどうなっているんだろう」
と思わず足が進んでしまいます。
萩や、萩と共に歩んできた長州の歴史を知ることができます。廊下の壁面では萩出身の著名人の紹介がありますが、教科書を彩るそうそうたる面々ばかり。
彼らを育てる教育方針?慣習?風土?があったのでしょう。これらの研究は今後の課題であります。
萩 鉄道の玄関口へ
萩博物館を後にし、最後にやってきたのがこちら
1925年、開業当時の品の良い駅舎が今も残ります。
萩を観光する際はこの2駅隣にある東萩駅が非常に便利です。一方この萩駅ですが、バス路線もなく、駅前も賑わっているわけでもありません。ただ、意匠を凝らし、手の込んだ造りになっています。
この萩駅、山陰本線がこの街の西方 長門市方面から延伸されて、萩の街に初めてレールが敷かれた際にできた駅でした。地元の悲願の駅建設、加えて暫くは終着駅としても機能しましたから気合が入らないはずがありません。かようにして立派な駅舎が残されたのでありました。今からは想像しがたいですが、大いに賑わったのではないでしょうか。現在の列車本数は、1時間に1本あるかないか。
伊藤博文らと密航しイギリスで鉱山や鉄道を学んだ井上は帰国後、工部省(現在でいう国土交通省)の鉄道頭として東海道本線の敷設に従事。日本鉄道の父と呼ばれるように国内の路線網拡大に尽力した人物です。維新後、お雇い外国人の手を借りるしかなかった鉄道建設において、技術者の育成にも力を入れ、内製化にも貢献しています。
余談ですが、美味しい牛乳やジュースで名の知れた小岩井農場。その井は、井上の井から取られたもの。彼と三菱財閥創始者の「岩」崎弥太郎、東北本線や常磐線を敷設する日本鉄道会社の発起人の一人であった「小」野義真、それぞれの名前をとって小岩井としたのでありました。
いまや本数も少ない無人駅ですが、駅構内は長大な列車にも対応可能な立派なつくり。
分岐器はV字に開く古い構造のもの。
スピードが出しくい構造ですが、速達列車が来ることもないため残されているのでしょう。
現在この駅にやってくるのは、こうした短編成の車両のみとなっています。
2005年、益田・小倉間を結んでいた特急いそかぜの廃止後、定期優等列車の乗り入れはなくなってしまいました。
つづく
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