橿原市今井町と五條市を散策 | 広大な寺内町と未成線・大名の政治を知る[関西重伝建地獄]

関西

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[関西重伝建地獄]宿場町の面影残る関と商業都市 宇陀をゆく
いきなりですが、重伝建という言葉をご存知でしょうか。 正式名称 重要伝統的建造物群保存地区 念仏のような漢字の羅列・・・正直あまり馴染みのない名前ではないでしょうか。ただ、「古風な街並みを散策したい!」という時に、この制...

橿原に残る環濠集落

続いて訪れたのは、奈良県橿原市にある今井町と呼ばれるエリア

橿原は、現在の宮崎県からやってきた神武天皇が紀元前660年2月11日に即位したとされる場所。この即位した日は、建国記念日として現在も我々が触れる機会があります。

そんな橿原が、その長い歴史において登場するのは中世末期。戦国期、浄土真宗 称念寺を中心に、その門徒が集まって寺内町浄土真宗寺院の周辺に生まれる門前町)が築かれます。その集落こそが今回紹介する橿原市 今井町です。

今井町

今井町街並み

この今井町を散策する上で、特筆すべきは、こうした街並みが面的に広がっているところです。先述の二か所とも、街道筋沿いに線状に広がった街並みだったのに比べると、どの路地を行ってもひたすら古風な街並みが広がります。まるでタイムトリップして過去の日常に入り込んでしまったようなそんな不可思議な感覚を味わうことができます。

今も生活が息づく

また寺内町が持つ大きな特徴として、軍事拠点としての役割も挙げられます。この今井町もその例に漏れることなく、集落の周りはお堀に囲まれ、意図的に屈折させられた路地などが残ります。

絵になるおばあちゃん

時は戦国時代。戦国武将の群雄割拠、そんなイメージが付きまとう時代ですが、実はそれと対等にやり合っていたのが、浄土真宗勢力。一向宗とも呼ばれますね。

古風な床屋が良きアクセント

彼らは、宗教的な結びつきに基づいた軍事力を持つことで、多宗派や盗賊、大名に対抗し、その地位や営みを保つべく奮闘します。争いごととは無縁な平穏・静謐な現在の寺院からは到底想像できませんが、日本のある時代には、そんな時もあったのです。

どこまで

どこまでも続いていきそうな路地

きな臭い印象がどうしても付きまといますが、その一方で軍事力に基づいた安定した暮らしを背景に、今井町はその後長い間、商工業都市、さらには文化都市として殷賑を極めます。

戦国期には「の堺、の今井」、江戸期には幕府から例外的に自治権を与えられるなど厚遇を受けながら「大和の金は今井に七分」とまで言われたと言います。当時の華やかな様子がその言葉からも伺い知れますね。

お寺もある

しかし、幕末の重税策、さらには維新を経ていく中で、その今井の賑わいも数世紀ぶりに落ち着きを取り戻すことになりました。しかしそれがある意味奏功したのか、現在まで往年を感じさせる街並みが残されることにもなった気がします。

木造の家並みには花が映える

とまぁ色々書いてみましたが、やはり百聞は一見に如かず。実際に訪れてみると分かりますが、やはり他の重伝建と比べ、その規模感は特筆に値します。

夏休みのお出かけ?

また、都市化の波を押し返したかのように、周囲の街並みからこの場所だけが、かつての風景を残すように存在していることが、環濠都市として自治を続けてきた今井町の歴史を証明している、そんな風にも感じました。

とにかく、それだけ沢山の湧き上がる気持ちと向き合うことができる街並みが、ここには残されていたのです。みなさんはどのように感じられるのでしょうか。重伝建に興味をお持ちになられる方がいるのであれば、ぜひともおススメしたい場所の1つですねぇ

今井町でした

余談ではありますが、この街並みだけでなく、最近では、数百年に渡り、時代の波に屈することなく、自治権を保ち続けた点に注目しようという動きもあるようですね。

昨今のコロナ禍では、各都道府県の知事の手腕が注目を集めました。本来地方自治の本旨とは、地域の状況に即して施策を打つことにあると思うのですが、最近では責任の所在を気にするあまり、国の号令に従うだけの場面を見かけることも多いですなぁ

ぜひとも歴史から学び、より良い政治をしていってもらいたいものです。

五條の街並みは想像以上

本日最後に訪れたのは、奈良県南部にある五條市県内の市の中で唯一、近鉄線が通っていません。ほぅ
驚いたのはそのことではなく、むしろ奈良県がそこまで近鉄によって支えられていること。関西ではJRよりも私鉄が優勢というのは聞いたことがありますが、ここまでとは

五條は関ヶ原の合戦後、その功績を認められた松倉重政によって築かれた城下町。

五條新町

緩やかなカーブがその先を期待させる

彼の減税などの重商政策、そして紀ノ川流域にあり、伊勢、大和、紀伊方面への移動が至便である立地から交通の要衝にある商業の街として発展。その後、幕府の天領となり、江戸期中は地域の中心として賑わったようです。

そんな隆盛のきっかけを作った松倉重政は、現在でも地元では親しまれているんだとか。

未だ成らずの線

五新線鉄道構造物群

五新線鉄道構造物群

ただ、五條というと、鉄分好きの界隈では、こちらの方が有名でしょうか。国鉄五新線鉄道構造物群です。

五條の五新線

ぶつ切りのコンクリート橋

五新線は、この條と和歌山県は宮を結ぶ路線として計画されます。

ご覧のように紀伊山地を越え、紀伊半島を縦貫する新ルートを開拓するような路線で、沿線で採れていた木材輸送なんかも見込まれていたようですね。

美しいアーチを描いている

1939年に着工。戦中の休止を経て、1959年にこの界隈の路盤が完成しはじめ順調に工事は進んでいきます。

五新線橋梁

紀ノ川を渡れず

ところが、どうしたものでしょうか。建設予定地の沿線自治体が建設に反対し、少しずつ話がややこしくなってきます。そして、当該地域への延伸を目論む近鉄南海の思惑が入り乱れるなどすったもんだを重ねるうちに、時代の主役は鉄道から車へと変わっていきました。結局、工事は1982年に凍結。そんな悲しい歴史を現在に伝えてくれています。

街並みに溶け込むコンクリート橋

と、悲しい結果とは書きましたが、仮に無事開業にこじつけたとしても採算線が望めるルートには思えません。結局、建設の中止は妥当な判断だったんではないかと思います。

一方で、全国各地にこのような作りかけの国鉄路線が沢山あるわけですが、実際に作り出す前に十分な検証が行われていたんでしょうかねぇ。自分が建設に従事していたら、頑張って作ったものが、使われず放置されているというのは、悲しくてしょうがないですよ。

と、話が暗くなってきたので、くだらないお話を一つ。最近、Twitter界隈を賑わわせた奈良県の路線図のご紹介。奈良県公式HPに掲載されていたという県内路線マップ。一見問題なさそうですが、現実を反映させるとこの通り

 

北西に何かあるのかな?笑

 

興味深いツッコミでありました。ここまで人口が偏っている都道府県もなかなか珍しいですよね。コンパクトシティの秘訣は、奈良県にあるかもしれません

松倉 重政という男

五條餅商一ツ橋

餅商一ツ橋

再び話を五條の街並みに戻しましょう。市内で重伝建に選定されているのは、この五條新町の街並みです。

左手に写る餅商一ツ橋は、なかなか素敵な店構え。大正期創業の老舗でしたが、2018年11月に閉業されてしまったとのこと。この写真を撮影したのは、2017年の夏ですから、当時は現役だったんですね。惜しいことしたなぁ

素朴なお餅を提供してくれる五條でも有名なお店だったようです。

餅商一ツ橋 (五条/和菓子)
★★★☆☆3.07

松倉重政が築いた商業都市

冒頭に記したように、松倉重政はその重商政策により、商業都市五條としての礎を築きました。彼の統治時代は、それは素晴らしかったようで、現在でもこの場所で松倉祭りが開催されることからも、その地元での愛されぶりを伺うことができます。

しかし、この話を聞いた当初、私は自分のイメージとかけ離れた松倉重政の扱いに大きな疑念を抱かざるを得ませんでした。なぜなら彼は、重税策とキリシタン弾圧がきっかけとなって引き起こされた島原の乱のきっかけを作った人物として、認識していたからです。

日本家屋と水辺は良く合う

五條での藩政が認められた重政は、出世し、外国交易の拠点であった長崎県島原へ移封となります。

しかし、それが悲劇の始まり

彼は、4万3千石とされていた島原の石高を幕府へ10万石と申告します。きっと幕府へ少しでも良い顔をしたかったのでしょう。
石高とは土地の生産力を見る指標で、言ってしまえば豊かさの目安であり、それは同時に年貢(税額)の寡多に関わるものでもありました。当時の税率は、五公五民と呼ばれ、収穫物の半分を領主へ納め、半分を自身の生活の糧としていました。単純に考えると、10万石と誤認された島原の年貢は、5万石となるわけです。そう、

3万石の赤字

こうして、農民たちは自身の生活もままならないまま、厳しい徴税に苦しみ始めます。

水辺と共存する五條の街並み

悲劇はそれだけに収まりません。島原へ入領後、新たに島原城を築城した重政ですが、これまた領地に見合わない立派な作りとしてしまいます。

島原城

長崎県 島原城跡

これは実際の島原城の様子。他と比較してどう、とまで私の知識では評価できませんが、少なくとも簡素な造りではないことが分かります。

また、江戸城の改築にあたっては、普請(お手伝い)を請け負うなど、身の丈に合わない振る舞いが続きます。そしてそのしわ寄せは過酷な搾取となって農民へ重くのしかかります。その上キリシタンへの弾圧も残忍なまで徹底して行います。ここまで来ると重政の2文字が「い税負担を強いる治」そんな風にも見えてきてしまいますね・・・

煙突は街並みの良いアクセントに

そうした圧政が続いた結果、重政の子、勝家の時代に耐えかねた農民たちの手により島原の乱が起こります。

このように、教科書で語られる松倉重政は、反面教師とすべきような為政者だったわけです。名君から暴君へ。どうして同じ人物が治めた場所が、このように違う運命を辿ることになったのでしょうか。諸説あるようですが主だったものをご紹介するならば

1.ダメ男だった説

これは、なかなか人間味のある説です。男性が恋人を喜ばせようと、収入に見合わない豪華な贈り物や食事への誘いをしてしまう。そんな話をよく耳にしますが、まさにそれと同じ。
関ヶ原の合戦後、栄転を重ねた重政。徳川家への恩は言葉にできないほど、大きなものだったのでしょう。そんな幕府に恩返しをしたい。幕府を喜ばせるべく、見栄を張り、無理な立ち振る舞いを続けてしまったという説です。この場合、足元を見ることができなかった彼は、到底評価できる人物ではありません。実際、歴史作家の司馬遼太郎は、著書において、

日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない 『街道をゆく』

とこきおろしています。

2.サスペンス的展開だった説

そしてこちらはドラマチックな説。

温厚だった重政がどこかのタイミングで別の何者かにすり替わっていたという、都市伝説のような話ではありますが、これは五條の中華屋さんで耳にしたお話。五條と島原での彼の振る舞いは180度変わっておりますので、無くはない話にも思えます。

それを裏付けるかのように、重政は島原赴任後、57歳の若さで急死しており、五條時代の重政を殺め、成り代わった真実を知る暴君「重政」が、別の何者かに消されてしまった・・・ということもあり得るでしょう。

と、色々書きましたが、真相は分かりません。

ただ、その土地土地で、同じ為政者に対して異なる評価がなされているというのは、他にはなかなかない例ですので非常に印象に残った次第です。

オケタ装飾

かわいらしいフォントのオケタ装飾さん

酒蔵 山本本家

こちらのレンガ造りの煙突が印象的ですねぇ
酒蔵として今も営業をしている山本本家。五條の街並みにアクセントを与えくれています。

と、盛りだくさんの五條を楽しみつくしたところで本日は日没。今宵はここからさらに大阪府河内長野に宿泊し、翌日、大阪府と滋賀県の重伝建を見ていきたいと思います。

つづく

大阪府 富田林と滋賀県 近江八幡をゆく 寺内町と城下町散策【関西重伝建地獄】
前回に引き続き、関西地区の重伝建を見ていきますよこの旅も三日目となりました。脇目を振らずひたすら重伝建。ちょうど友人から連絡があり 関西でなにしてるんだー? となったのですが、答えに窮することに笑 普通の人は、関西で3日...

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