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※市場の写真は2018年8月、移転後の様子は2020年5月撮影です。
そもそも市場ってなんだ
と、ここまで市場について書いてきましたがそもそも市場ってなんでしょう。
- 野菜などの生産者がテントを並べ、そこに我々が今夜の食材求めに行く場所!
- マルシェとか。
- 祝日に、公園の広場なんかで出くわすと嬉しくなったり!
そんなイメージですが
この築地はちょーと違うのです。
① 誰によって開設されているか
まず、築地でいう市場というのは、正確には中央卸売市場と呼ばれるもので
国の認可に基づいて都道府県等の自治体によって常時運営・管理されています。
一方、先述の一般的にイメージされる市場は、生産者で構成される団体や有志によって開催される一時的なものが多いのではないでしょうか。
② 誰が参加しているのか
卸売市場では、生産者、消費者に加え、仲卸、卸業者と呼ばれる言わば取引のプロも構成メンバーです。
一方、一般的にイメージされる市場は、もう少し身近で、生産者と消費者の2者によって構成されていることが多いでしょう。
TVなどでセリのシーンを目にすることがあると思います。
あそこで、輪の中心になってセリを仕切っているのが卸業者、そして卸業者を囲むように品物に目を光らせているのが仲卸業者です。
そして以下のイラストの流れに沿って、商品が生産者から私たち消費者へと移っていきます。ただ、どうして生産者は直接小売りなどのスーパーへ販売せずに、卸業者を通すというひと手間を加えるのでしょうか。
卸がなければ商品が安く手に入って、時間もかからないのに!
では、生産者と小売業者それぞれの立場で考えてみましょう。
まず生産者
彼らは、その名のとおり生産に専念して、より高品質なものを効率よく大量に買い手に届けたいわけです。よって生産・収穫したものは次々に段ボールや箱に詰め込まれるため、商品の販売の単位は箱単位などの大口となります。
一方、小売業者
スーパーなどは季節やイベントで日々変わる消費者たちの多様なニーズを満たすこと、そして各家庭が購入しやすい単位で販売することが求められます。多品種少量で仕入れ、逐次品ぞろえを変えていきたいのが彼らです。
となると、このままでは結ばれたい両者はすれ違ってしまいます。自分のやりたいことと、相手がやっていることが異なるからです。まずい。
と、そこで現れるキューピッド!それが卸業者なんです。
もし彼らが企業の就職活動に参加し、「自分を何かものに例えるなら?」と質問を受けるのであれば、
潤滑油
という回答が適切でしょう。
彼らは生産者から大口で仕入れた商品を小口に振り分けつつ、消費者の需要動向を精査し供給量と価格を調整します。つまり、調整役。生産者や小売業者が、本業に専念できるよう、生産から販売までを円滑にしてくれているのです。
また、モノが多すぎる時は保管を、少なくなったら在庫から供給をしてくれるなど食料の安定供給にも大きな役割を果たしています。そして、これらは卸売市場の役割でもあるのです。
我々の食卓に、毎日食材が載っているのは、このように中央卸売市場が支えてくれていたおかげだったんですね。
漢の胃袋を支え続けるあの店
と、講釈が長くなりましたが、引き続き築地の様子を見ていきましょう。
この一帯は市場関係者を相手にした飲食店が並びます。
今となっては懐かしくなった3密。どの店舗もすごい行列です。
市場関係者向けのお店だったお店も、プロを相手にした味の良さや価格の安さ、そして朝型の特殊な営業時間などが繰り返しメディアに取り上げられ、ご覧の大賑わいとなりました。
どこも美味しそうな店構えです。暖簾があるお店に惹かれてしまう現象に名前つけてみたい筆者。
そして、今や全国の漢たちの胃袋を支えるようになったあの名店も、これらのお店と共に築地の発展を支えてきました
オレンジの暖簾と吉野家の文字
これだけでお腹が減ってくるのはこれまで何度もお世話になったからでしょう笑
ホクホクなご飯といい塩梅に味が染み込んだ牛肉と玉ねぎ。そんな贅沢な組み合わせをファストフード化してしまう発想が、そして実現してしまうオペレーションが恐ろしいです。
料理を自分でするようになって分かりましたが、あのクオリティの丼ぶりを380円で提供するってとんでもないことですよ。自分が料理人ならばもっと儲けたい笑
吉野家の歴史を紐解くと、築地市場のお父さん的立ち位置である 日本橋魚河岸時代から市場労働者の食欲を充たし続けてきたようですね。創業は1899年。牛丼を有田焼の丼ぶりで提供するスタイルは、その時から確立していました。その後、魚河岸の移転と共に築地に店舗を移し、営業を続けます。
そして転機となったのは、㈱吉野家の初代社長となる松田 瑞穂氏の就任。彼によってチェーン展開が進められ、店舗が全国に急拡大していきます。しかし、ここからはよくあるストーリー。急拡大の歪みによって、
1980年に倒産
店舗拡大を賄うだけの牛肉を確保できず、その質を落としたことで進んだ客離れが原因でした。
再出発をした吉野家は、顧客第一を掲げ、再び成長を続けます。そして海外にも店舗を広げ、現在の地位を確立したということです。いやー実は、この記事を書くまで吉野家が倒産していたことを知らなかったのですが、よくぞ耐えてくれましたよ。
あの値段のあの味。どちらかが崩れれば他のお店を使いたくなるそんな絶妙な設定です。愛され続けるポイントを見つけ出すバランス感覚が吉野家を吉野家たらしめてきたのでしょう。
市場の外にも市場
と、これまで紹介したのが築地の場内。豊洲へ移ってしまったエリアです。
ここからは場外。こちらは、現在でも築地の地に残っています。
場外市場はこのあたり
ただ、場内の移転で人通りは減るでしょうから今後が心配だ・・・なんて当時は思っていましたが
場内が無くなれど、築地は死なず
現在ではそう言われるように、場外は引き続き賑わっているようです。
さて、再び当時に戻りましょう。
こちらは、撮影のほんの数日前に火災に見舞われてしまったラーメン井上。店先で調理する様子を眺めることができ、美味しい中華そばを提供してくれるということで有名なお店でしたが、ご覧のような惨状が広がっていました。
当時、築地に行く予定を立てた時、井上への訪問を企んでいたもんですから、火災の報道に肩を落としたものです。
現在になってもシートが張られ、営業は再開されていないとのこと。これを機に引退されてしまったのでしょうか。
中央に写る建物も、市場移転後に取り壊され、現在同じ場所はご覧のように
跡地は五輪のバス発着拠点として使われるんだとか
築地の跡地には、五輪の拠点のほか環状2号線が整備され、選手村と都心部を結ぶ重要な幹線となる予定でした。ただ、築地の移転で揉めに揉めた結果、
「道路整備が間に合わない!」
そんな話を移転前には耳にしていました。
ただ、周知のとおり、五輪が延期となりましたし、道路自体も
移転のドタバタ劇は尾を引かずに済んだようです。関係者各位の苦労はすごかったんでしょうね。政治にはこうした話が付きまといます。
1年延期となった東京オリンピック。来年の今頃、この記事を思い返して何を想うのか。
ということで、築地を後にします。
築地の名残を踏切に見る
築地はすっかり跡形もなく豊洲へ移ってしまいましたが、その面影を残す場所が、少し離れたところに残されているので、ついでに足を延ばしてみました。場所はこちら
そう、上で記したかつて汐留貨物駅と築地市場を結んだ貨物線 東京市場線に存在した浜離宮前踏切です。上のグーグルマップで、浜離宮朝日ホールの南側に緩やかな弧を描いた道路がありますが、これが貨物線跡です。
当時は貨物線の存在を後世に伝えるべく残されたであろうこの踏切も、市場自体がなくなってしまった今、築地市場が存在したという記念碑的な役割も担うことになりましたね、
我々の生活を支え続けてくれた築地市場。新たな場所で、引き続き人々の食卓を守り続けてもらいたいものです。
というわけで、再び移動して旧新橋停留所にて今回の散策は終了。1872年の鉄道開業時の駅舎が再現されています。東京のターミナルの地位を1914年に東京駅へを譲った後、汐留貨物駅となり、ヒトではなくモノのターミナルとして東京の物流を支え続けました。その汐留貨物駅も1986年にその役目を終え、再開発の後、現在のビル群が出来上がりました。
こうしてブログをまとめてみると、物流の一大拠点であった築地・汐留地区の歴史は、築地の移転によって完全に幕を閉じたのだと感じます。そこにはどうしても寂しさがありますが、一方で変わりゆく時代に街が適応して、より輝くためには必要なことだとも思うのです。
いつまでも東京がその歴史を重ね、魅力的な都市であることを願って、終わりとさせていただきます。
おまけ 中銀カプセルビル
それでもこの子は残して欲しいなぁ笑
おしまい
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