東西に走る中央線と南北に走る多摩モノレールが交差する交通の要衝 立川
近代的な街並みに相応しく、最近では、これまで東京市部を代表していた八王子に勝る勢いで発展を続けています。その要因は先述の利便性の良さも挙げられますが、もう一つには開発が可能な広大な土地の存在がありました。米軍立川基地の跡地です。そして今回ご紹介するのが、米軍で大いに賑わったというシネマ通り商店街です。由来となった映画館は1969年に閉館。その後は、静かな通りとなって今に残ります。
基地の街 立川
国土地理院の地図情報を拝借し、まずは立川を上空から見てみましょう。
黒く見える部分が一般の建物。右下には立川駅や競輪場が確認できます。
駅の北側には昭和記念公園、自治大学校、多摩モノレールの軌道や、地図に記載はありませんがららぽーと、IKEYAなど、立川を代表する施設が集中しています。そう、これらがある場所は元々すべて基地用地だったのです。
立川の歴史を振り返ってみますと、まさに基地と共に歩んだ街だったことが分かります。戦前の立川は寒村で本当になにもない場所でした。ところが、1922年に旧日本陸軍の飛行場建設をきっかけに航空機の街としての歴史を歩み始めます。昭和初期の一時期は旅客の扱いも行われ、その機能が羽田に移るまでは海外への空の玄関口としての役割も担っていました。
ただその後、敗戦を迎え、米軍の進駐が始まると基地の街に異国情緒が加わってきます。
そしてこればっかりは若い男性が集う街の宿命でしょうか。基地周辺には米兵を相手にしたバーや映画館、さらには”遊び”場が立ち並ぶ歓楽街が形成され、隆盛を極めます。
時は流れ、航空機の巨大化が進むと立川の滑走路では距離が足りなくなった米軍は基地の拡大を計画します。しかし、米軍進駐時に土地の強制接収を経験していた地元は猛反発。歴史にも名を残す大騒動となります。これが砂川事件です。
これを受け米軍は1969年に立川基地の機能を横田基地に統合することを決め、同基地を返還。以後は、一部エリアが自衛隊の駐屯地、残りエリアが先述のとおり公園や商業施設となり現在に至っています。そしてこの1969年は、先述のとおりシネマ通り商店街の映画館が閉館した年でもありました。
と、前置きが長くなりましたが、本日はそんな立川の若かりし頃の名残りであるシネマ通りを散策します。ではいきましょう。
立川北口駅前のメインストリートを少し進んだ交差点にやってきました。垂直に交わる道路は、交通量に見合わない幅員の広さです。昔の航空写真でこの場所を見てみますと、
少し見にくいですがこのとおり。基地内へ入場するための道路だったみたいです。
立川シネマ通り商店街
基地入口跡を横目に、少し北に進むと、
今回の目的地です。基地のゲートからも近いですから、多くの米兵たちで賑わったのでしょう。
早速探検してみましょう。
現在でも飲食店はありますが、ポツポツとという塩梅。
これは当時から存在しそうなお店を発見。職人さんは今もご健在で、評判の時計店みたいです。
昼夜と賑わい、出前の自転車なども往来したのでしょうね。
某サイトでは元々は旅館だったのではないかと取り上げられていたこちらの広い間口を持った建物。たしかにこのような造りの民宿を千葉の海水浴場で見かけたことがありますな。現在では天理教の支部のようですが、多くの信者が集う教会とするには、広間を有する旅館の間取りは使い勝手が良いのも頷けます。
続いてはこじゃれた名前の魚屋さんが。静かな商店街も、生き物がいたりすると途端に温かい空間になるから不思議です。吉祥寺店もあることに驚きましたが、ネットで調べてもひっかかることはなく、恐らくここが唯一の多摩水族館になってしまったのでしょう。
シネマ通りの最深部までやってきました。こちらのの入口には現役のお肉屋さん、そしてはす向かいにタバコ屋が。往年は歓楽街の入口の一等地で繁盛したことでしょうが、いまやひっそり営業をしているという感じ。
二階の部屋の中からも枝が飛び出していますし、屋内は植物の楽園となっていることでしょう。駅前の整然とした街並みが印象的な立川ですが、少し歩いて路地に入るとなかなか濃ゆい物件が散見されます。基地と米軍の街として歩んできた名残は簡単にぬぐえるものではないようです。
と、以上、わずかではありますがシネマ通りの散策でした。人通りが減って寂れた商店街が住宅街へと変貌しきってしまいそう。そんな状況が確認できました。
歓楽街であった名残もはっきりと目にすることはできませんでしたが、シネマ通りという名前といくつかの商店から往年の賑わいのイメージを膨らませるしかありませんでした。ただ、あと数年すると、いよいよ商店街という雰囲気もなくなってしまうかもしれません。発展を続ける立川と共にこちらの動向も注視していきたいと思った次第でした。
おしまい
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