古い塔のある街が好き。
それに気づいたのは最近の投稿を振り返った時でした。日立の大煙突、針尾送信所と、塔絡みのものばかりではないですか。
古い塔が残されるのは、単純に街の新陳代謝が進んでいなかったり、歴史的にその街のシンボルとして残されていたりと様々でしょう。ただいずれの街も私の好物。無意識に塔に招かれていたようですね。
そんなわけで今回は2020年12月の筑豊の田川伊田駅周辺をご紹介します。
と、その前に事前学習を兼ねて、田川伊田駅裏に存在した鉱業所跡に整備された石炭記念公園を訪れます。
石灰石採掘のため異様な形状をした一ノ岳。その奥は二ノ岳、三ノ岳と呼ばれ、煙突と共に田川を象徴する光景になっています。
筑豊炭田の雄 田川
教科書にも登場する筑豊炭田。国内有数の産炭地として紹介されますが、厳密には筑豊地域に散在する炭鉱を総称する呼称となっています。ただ、そんな筑豊炭田を牽引したのがこの三井田川鉱業所 伊田抗でした。
言ってしまえば甲子園優勝チームのエース。
1900(明治33)年、三井が地元の産炭組合を買収した折から、1964(昭和39)年の閉山まで、地域に深く根付いていきました。
地域の人々の生活を、そして日本経済を支えた炭鉱。それを誇るように、煙突は屹立しておりました。
竪坑櫓も残されています。こちらは移設済みとのこと。英国性の鋼材が用いられています。
「月が~出た出た、月が~出たぁ、あ、ヨイヨイ♪」
どこかで耳にされたことがあるのではないでしょうか。炭坑節です。
私の知る炭坑節は一節に「月が三池炭鉱の上に出」るので、てっきり熊本で生まれたものだと思っておりました。これは炭鉱節が全国に広がる中で生まれたローカル版の1つだったようで、発祥はこの田川とされています。
お月さんを煙たがらせているのが先ほどの二本煙突、「一山二山 三山越え」というのが、香春岳。この詩が全国的な広がりを見せたのも、それだけ田川地域に関わる人々が多かった証でしょう。
一方、明るい場所には影がある。炭鉱の栄華の裏で苦しんだ方々もいらっしゃいました。
じん肺は、鉱山などで長時間粉塵を浴びた結果、肺機能が低下し、呼吸困難等を起こしてしまう病気のことです。政府の増産要請に応えた鉱山関係者の方々は、エネルギー革命の折に梯子を外される形となり、健康被害に苦しむこととなりました。
俺たちはボタじゃない
この言葉にすべてが詰まっている気がします。
続いて鉱業所に隣接していたJR・平成筑豊鉄道の田川伊田駅を散策してみましょう。
”トラ”の駅 田川伊田
田川伊田駅にやってまいりました。JR日田彦山線と平成筑豊鉄道の田川線と糸田線が乗り入れる主要駅です。
開業は1895(明治28)年。これは東海道線全通の約5年後という早さで、当時の炭鉱の社会的地位や投資先として重要視されていたことが伺えます。
旧軍の地下壕のようなドーム状の通路、良いですねぇ。
それまで遠賀川の水運に依存していた田川の石炭輸送ですが、鉄道開業により港町 苅田や門司への効率的な陸運が可能となりました。以後、田川の炭鉱はさらに賑わいを見せるようになっていきました。
苦手とされる方も多いのですが、飲みの場で昔の経験や往年の武勇伝を話す年配の方とお話するのがわりと好きな筆者。この2面4線、中線・側線跡も有する広大な駅にもそれと似たような感覚を覚えるのでしょうか。
必要とされた規模施設をこの駅が十分に発揮していた往年の姿を思い浮かべてみます。
ホームからは煙突を眺めることができます。
当駅の印象的な眺めでして、1986(昭和61)年公開の『男はつらいよ 幸福の青い鳥』の中でも、寅さんをヒロインが見送るシーンに登場してます。煙突の見える駅、情緒的な響きではありませんか。
映画では嘉穂劇場に訪れた寅さんが
「昔はここが客でいっぱいだった」
と懐古するのですが、この煙突もまたそうした誇りとノスタルジーを掻き立てる何かがあるのではないでしょうか。
また、この田川についてはもう一人の”トラ”を紹介せねばなりません。
田川出身の画家 タイガー立石氏です。晩年の作品『香春岳対サント・ビクトワール山』には田川のモチーフが散りばめられています。
娯楽・文化は経済と共に
かつて北海道では最新の映画が札幌ではなく夕張で公開されていたという話があります。各地の炭鉱と同じく、この田川にも映画や芸能、マンガといった文化が流入してきました。消費者が多くいるという商業的な理由もありますが、炭鉱会社が福利厚生としてそれらを促した側面もあります。
東京駅で開催中の展覧会「鉄道と美術の150年」でも展示された本作では、そんな街で刺激的な日々を過ごした立石氏の少年期を伺うことができます。
とはいえ、それは過去の話。2022年現在の田川市の人口は4万5千人。閉山直前の1960年代と比べると、半分以下となってしまいました。閉山による働く口の不足で生活保護の受給率も全国水準に比し高くなっているとか。
良くも悪くも炭鉱は大きな足跡を残していきました。
未来に向けて
しかし、田川の人々も諦めているわけではなく、未来に向けて新たな取り組みも始まっています。
田川伊田駅の駅舎を市が購入し、観光拠点として整備をしております。
鉄板焼きレストランも併設。田川市、思い切った取り組みを始めましたな!
日本経済へ貢献してきた歴史も、博多へのアクセスの良さ(車で1時間ほど)もある田川市。今後の動向が楽しみであります。
つづく
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