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一本杉が見守った暮らし
日鉱記念館で見かけたこちらの風景を求め、山を下ってゆきます。この写真では判読できませんが、地図上に一本杉の文字が見えました。こちらを頼りに探していきます。一本杉は記念館までの道中に思い当たる場所があったため、そこを目指していきます。
県道から分岐し、別の谷筋に伸びていく道路は閉鎖中です。google mapで現在地を確認すると、
この先に集落が建ち並んでいたわけです。閉山の後に、集落から人も消え、そこへ通ずる道路も不要になったということでしょう。現在地から県道を登ってゆきます。
ネットの海に漂う情報によれば、2007(平成19)年までは営業されていたみたいですが、、数年もすれば背後の森に呑み込まれてしまうかもしれません。
運転中は分かりませんでしたが、歩いてみると往時の痕跡が微かながら残っているのが分かってきました。
右手の2棟はいずれも空き家でしょうか。そして往年の様子がこちら。
先ほどの2軒も建っています。俄かには信じがたいですが、確かにこの場所に賑わいがあったのです。
同地のシンボルで、地名にもなっていた一本杉。
しめ縄をまとい、多くのSPを引き連れただならぬ杉なのは伝わってきますね。
この~木、なんの木、気になる木~♪なる曲がありましたが、この一本杉がモチーフになっていたり・・・しないですかね。
かつては県道に並行してもう1本道路があったようなので、その名残でしょう。閉山から半世紀。記念館の設計コンセプトにあるように、人々の強い意思と開拓精神があるうちは力強い人の営みも、ともすれば呆気ないものです。
調べると、そもそも布団を叩くことのデメリットが多く、最近は掃除機で吸引するのが主流のようでございます。常識もまた呆気ないものかもしれません。そんなことを考えながら勾配を登っていくと、
1979(昭和54)年に並行となった本山小学校の校門が残っております。往時は2300人の在校生(!)を抱えたというマンモス校でありました。1学年400人、クラスは10組くらいあったのでしょうか。
閉校後はあかさわ山荘という宿泊施設になっていましたが、2011(平成23)年に解体されてしまったようです。震災の影響でしょうか。
そして、目指していたあの場所は、そんな小学校の前にありました。
漫画ONEPIECEの空島編に、黄金島を見つけたとある冒険家が王様と共に島を再訪するのですが、(空に打ち上げられていたため)その島は既になくなっていました。冒険家は黄金の存在を証明できず”嘘つき”呼ばわりされた挙句、無念の中、処刑されるという悲しいストーリーがあります。写真が無ければこの山間に、
5階建てアパートが軒を連ね、
商店街をゆく人々の賑わいもあり、
日本経済を支えていた
とは到底信じられなかったでしょう。日立のヤマが、かつての栄光を胸の奥にしまいこんで、静かに暮らす老人のように思えたのでありました。
日立の大煙突
本山から山を下り、大雄院までやってきました。鉱山で採れた鉱石を精錬してエリアで、現在でもJX金属商事が所在しております。
かつては150mあった大煙突。倒壊後も30mを残し、ヤマのシンボルとなっております。
日立鉱山が賑わうと共に精錬所の煙害が地元で問題になっていました。これを解決すべく1915(大正3)年に完成したのが当時東洋一の高さを誇ったこの大煙突でありました。
ちなみに右下に見えるのは、大煙突の建設前に政府命令で作られた第三煙突です。政府の命令に従い建設したものの全くの役に立たなかったことから、阿保煙突という異名も。負の遺産と会社・地域のシンボルが並べられているこの状態がなんとも面白いじゃありませんか。
最後に、さらに山を下り、日立で最も歴史ある市街地エリアに向かいます。
今に残る一山一家の武道精神
最後に福利厚生施設もご紹介。こちらは共楽館と呼ばれる大正年間完成の鉱員向け娯楽施設で、劇場として利用されました。市に譲渡され、現在は日立武道館として第二の人生を歩んでいます。
そのはす向かいにあるのが戦前完成の日鉱斯道館。こちらは現在もJX金属の福利厚生施設となっており、社員の交流や運動大会などに使われているようです。
時が止まったかのような眺めの一帯。目が喜んでしまいます。両施設の間の通りは大雄院通りと呼ばれ、古くからのメインストリートでありました。
ネットではなかなか評判のうどん屋さん。日立市内には評価の高い個人経営の飲食店、弁当屋などが多く見られまして、これらの店が日立の仕事を支え、彼らが名店を育てていったということでしょう。
洗張とは和服のクリーニングのこと。今となっては絶滅危惧の業種かもしれないですね。
といった具合で今回は終了です。日立鉱山で印象的だったのはやはりぬくもりです。各地で鉱山を巡ってきましたが、一時の殷賑と引き換えに、現在は廃墟、空き地に溢れている・・・という場所が多い中で、この日立では現在も人々が当時の施設も活用しながら生活をされておりました。
これも日立鉱山が地域との共存の道を選び、ヤマに関わる全ての人を家族と捉える一山一家の精神の下で、支え、支えられの関係を築いてきたからなのだと思います。かくして、心地よく帰路へついたのでありました。
おしまい
アクセス
・車:常磐自動車道 日立中央ICより約10分(東京から約120分)
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