2023年1月、山口県は内陸の美祢の街を後にし、海沿いのまち宇部にやってきました。
美祢で採掘される石灰石の輸送先である宇部にも訪れ、地域全体でのセメント等の製造工程を見聞しようという算段であります。なかなか訪問機会の少ない山口県なので1日に詰め込んだ行程です。と、その前に宇部東部の床波という地域を訪れます。
現在、宇部といえばUBE(宇部興産)、セメント製造を基幹産業に潤う街というイメージがありますが、かつて一寒村にすぎなかった宇部を潤したのは石炭でありました。全国の採炭地ー北海道や九州などにも同様な形で街を形成したケースは少なくありません。一方、このような街の歴史は往々にして1960年代のエネルギー革命により急速に勢いを失っていくことになるのですが、この宇部は今なお県下3位の人口を有する都市として機能しており少々様子が異なるようです。この大きな要因となったのは、宇部炭鉱の基礎を築いた地元の名士 渡邊 祐策の描いた未来展望でありました。
「天与の資源である石炭は、やがて掘り尽くす時が来るが、
宇部の地域社会がこれと運命を共にしないよう永久性のある工業を興しておかなければならない」
鉄工所、紡績所、窒素工業、宇部鉄道(現在のJR宇部線)などの企業を次々と興しながら、並行して教育機関や鉄道、道路、上水道、港湾等の社会基盤を整備します。そしてこの過程で出会ったのがセメントです。美祢の伊佐鉱山に眠る石灰石と、既存事業であった石炭と掛け合わせた産物が、宇部興産の主要事業として今日まで宇部経済のけん引役となるのでした。
床波の駅
さて前置きが長くなりましたが、宇部市東部にある床波駅前にやってきました。
かつて存在した宇部長生炭坑の最寄り駅、こちらからスタートしていきます。
床波の街にはこじんまりと静かな生活があるように感じられます。漁港の街であり、昼下がりは休息の時間なのでしょうか。穏やかな時間が流れている印象です。
JR宇部線の床波駅。2011年(平成23年)までは駅員も配されていた駅も今は街並みと息を合わすかのように静かな無人駅となっています。
一方でレールや道床部が整備されており、これは宇部線が幹線として扱われるからでしょうか。都市部の近郊らしい雰囲気で鉄道の需要がまだ一定する存在するような感じがします。
宇部を潤した黒いダイヤ
床波駅から歩くこと5分、瀬戸内海を臨む場所に宇部の街の基礎を築いた宇部炭鉱の面影が残っています。
海岸通りを歩いてゆくと宇部長生炭坑の紹介文に出会うことができるでしょう。宇部長生炭鉱は現 宇部市内に見られた炭鉱の一つで、戦前から戦中にかけて稼働していた海底炭田です。陸地側から海側に向かってトンネルが掘り進められ、海底下にて採掘がされておりました。
そして写真右上、海上に見えるシルエットがこちら。
ピーヤと呼ばれる通気塔です。坑道内の空気を入れ替えるための設備で、この下に炭鉱があったことを今に伝えてくれています。
タイミングよくJAL機が飛来!
山口宇部空港も近く、風向き次第でこのような組み合わせも見ることができます。
他県ですと空港は県庁所在地の近くにあったりするものですが、山口県内には岩国とこの宇部にあるのみです。宇部に空港を設けたのは、下関や山口に適切な土地を求められなかったということもあると思いますが、宇部の経済力やビジネス需要を見込んでということではないでしょうか。
足元に目をやると、
石炭!石炭ですよね。
これには驚きました。宇部のみならず、国内各地の経済を支えた石炭も、戦後、日本が世界経済に組み込まれ、エネルギー革命を迎える中でその使命を終えることになります。宇部炭鉱自体も1967年(昭和42年)に閉山となりました。かつて渡邊 祐策が描いた未来とは異なる形ですが、その予想は現実となったというわけです。
長生炭坑のもう1つの顔
宇部長生炭鉱もまた、石炭の歴史と共に。。
とはならず他の炭鉱に先んじて1942年(昭和17年)に閉山。きっかけは同年に起きた海水流入事故で、183名の炭鉱労働者が死亡、うち136名は朝鮮の方々でした。彼らと共に坑道が放棄され、現在に至っています。
ピーヤから500mほど歩いたところにある長生炭鉱追悼ひろばへやってきました。地元の有志の方々(長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会)により管理・運営されているようで、資料が非常に細かにまとまっています。
印象的なのは先ほどのピーヤ脇にあった説明文との長生炭坑に対する歴史観の相違です。
炭鉱を経済的側面に着目する市の説明文と、事故や犠牲者にフォーカスしたひろばの説明文。一つの事象に対して立場が違えばこれほど捉え方、熱量が異なるというのは頭で分かっていながらも、かように実感できる場所は日本では珍しいかもしれません。皆さまはどう捉えられるか、ぜひ訪れて感じてみてください。
おしまい
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