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八ッ場ダムを後にし、前から訪れてみたかった太子駅跡に向かいます!が、その前に道路わきに突如現れた重 伝 建の文字。思わぬ出会いだったので、ちょっと寄り道することにしました。
六合赤岩地区
明治期以降、殖産興業の旗印の下で奨励された養蚕は、絹糸(シルク)の輸出を支え、当時の日本にとって喉から手が出るほど必要だった外貨をもたらしました。そして、獲得した外貨によって工場の整備や軍備拡充を行い、日本は国力を高めていきます。
殖産興業と富国強兵の両輪を回していたのは、小さなカイコガとそれを育てていた農家の方々と言っても過言ではないでしょう。その当時の農村の様子を色濃く残していることから、本地区は重伝建に指定されることになりました。
集落の入口にある水車小屋を目印に散策開始です。ただ、散策をはじめるまで養蚕農家の家屋がどんなものかとイメージをできておりませんでした。家の前に桑畑があるのでしょうか、はたまた蚕を育てる小屋があったりするのでしょうか。果たして・・・
と、しばらく行くと明らかに変わった佇まいの家屋が!土壁の建物としては異様に巨大です。湯本家住宅。1,2階部分は1806年に建てられており、3階は養蚕の空間として1897年に増築されたもののようです。養蚕農家の家屋として異彩を放つ本住宅ですが、幕末期に、幕政批判で逃避行をしていた高野 長英が一時期潜伏していたという話もあるようです。家の持ち主の湯本家はもともと医者をしていたようで、蘭学者であるとともに医者であった長英と繋がりがあったのかもしれません。こんなところで幕末の歴史に触れることになるとは。
改めて調べてみると、長英はかなりの切れ者、そして行動力のある人物だったようです。投獄された後も、看守をそそのかしてて、牢屋を放火させ、火災に乗じて脱走し、逃亡に際しては自身の人相を変えるべく、自分の顔に硝酸をかけるなど、武勇伝を多く残しています。しかし、最終的には密告によって捕縛され、亡くなってしまいます。彼もすごいですが、写真もない当時、人相も変わってしまった長英を捕まえた役人もまたすごいですよね。どうやって判別したんだか
話がそれましたが、再び集落を歩いていきます。
こちらは現在も使わている一般住宅。養蚕農家の家屋の特徴としては、住人が住む一階部分の天井が低く、蚕を育てる二階部分の天井が高く、また、風通しが良くなるように、通風孔などが設けられていることなどが挙げられるようです。
また、二階の外周部にベランダのようなものが見えますが、これは屋内で作業をする際に、通行がしやすいようにと設けられているようです。
至る所に立派な家屋が!作業に必要とはいえ、いずれも大型な建物が多い印象です。それなりの富が集まっていたんでしょう。
明治、大正を経て昭和30年ごろまで行われていた養蚕でしたが、輸出品として日本経済をけん引したのも、第一次大戦から昭和恐慌に至る1920~30年代ごろまでで、以降は化学繊維や輸入品の普及で次第に衰退していきました。
こちらは稚蚕飼育所跡
共同で飼育することでリスクを避けていたのでしょうか。現在は集会所として利用されているようでした。
重伝建は大きく二つに分かれると思っていて、観光地として活用され、食べ歩きなんかも楽しめる場所。もう一つは往年の雰囲気をそのままに今も人々の生活に溶け込んでいる場所です。
ここはまさに後者なわけで、言ってしまえばかなり渋めの観光地です。しかしながら、だからこそ物静かな空間を一人でゆっくり回ることができました。産業史を学ぶ上では、富岡製糸場なんかと一緒に周ったら面白いかもしれませんね。
頭上から給電されている電灯。どこか可愛らしい風貌です。
つづく
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