ポツンと一軒家
近頃テレビ朝日系で人気のトークバラエティ番組です。日本各地の人里離れた場所に、なぜだかポツンと存在する一軒家。そこには、どんな人物がどんな理由で暮らしているのかを追いかけてゆく番組です。
ポツンと終着駅
当時、私が旅先に選んでいた場所です。都会の外れにポツンと残された駅には、時代に置き去りにされた何かがあるものです。2020年12月、今回訪れたのは北九州 若松地区。以下の地図をご覧ください。
右手に所在する小倉駅。新幹線も停車する大都会ですが、中央にある筑豊本線 若松駅は「それがどうした」と言わんばかり、細長い洞海湾の脇で列車を受け止めているようです。はてはて、ここには絶対何かあるぞ。
ということで、八幡製鉄所の跡地を巡った後、同地を散策したのでありました。
若松南海岸通り
夕刻、写真の若戸大橋を渡り、やってきました若松港。都会に架かる吊り橋は海外情緒を感じさせるのはなぜでしょうか。印象的な赤い吊り橋は1962(昭和37)年架橋の若戸大橋。当時は東洋一の長さを誇り、全国各地に架橋された長大吊り橋の先駆けとなる存在です。格好いいですよね!
対岸は北九州市 戸畑区。区域の半分を日本製鐵 八幡製鉄所が占める工業都市であります。
中でも目を引くのがニッスイパイオニア館。1936(昭和11)年にニッスイの前身 共同漁業の本社ビルとして竣工した建物で、まるで対岸から見られることが分かっていたかのようにお迎えしてくれます。アンテナや今では懐かしいネオンサインがかわいらしいですね。
一方、若松側にも気になる建築がたくさんございます。
まずはこちら。商社の事務所跡かと思えば、地域密着の私立病院さんとのこと。ネット上に情報はありませんが、煙突のような中心塔が気になる意匠の建物です。
ここで煙突を想起したのは、若松港が石炭の積出港として栄華を極めた歴史があったからでして、ここから紹介していきたいと思います。
石炭の積出港
若松港の築港は1898(明治31)年、富国強兵・殖産興業が叫ばれる時代に筑豊炭田からの大量の石炭を積み出す目的で整備されました。
それまでの運炭は筑豊地区から日本海に注ぐ遠賀川の水運に頼っていたのですが、川下りはともかく、川の流れに逆らう筑豊への帰りの移動が大変です。陸路による安定・大量輸送のため、鉄道と港を利用する近代的な輸送形態の整備が急がれました。
若松と筑豊の入口 直方を結ぶ鉄道が1891(明治24)年に開通し、築港も完了すると以後、若松はヒト・カネが集まる”石炭の街”として殷賑を極めます。
これからいくつかの名残を紹介しますが、この上陸場もその歴史の証人の1つです。
1918(大正6)年頃、ごんぞうと呼ばれた石炭荷役の労働者をはじめ、洞海湾に関わる人々が踏みしめた石段の上陸場です。当時の若松市や地元商会により整備されました。
ごんぞう達の詰め所がこのごんぞう小屋。待機して、船が着岸すると外へ大勢で出ていったという感じでしょうか。現在は観光客向けの休憩室として整備されております。
二ヵ所目の証人がこちらの石炭会館。若松港運用開始後の1905(明治38)年に若松石炭商同業組合の事務所として完成した築120年近い建物です。
ちなみに同組合の委員長であった安川 敬一郎は、安川電機の創業者。同社は、日立製作所、古河機械金属等と共に石炭事業を祖業とする機械メーカーであります。若松の歴史が日本経済史の一端を担っていたわけです。
三人目がこちらの旧古河鉱業若松ビル。1919年(大正8)年完成です。
足尾銅山で財を成した古河財閥、石炭事業にも手を出していたんですね。古河をはじめ、資源や金融といった莫大な収入源で体制を盤石化していった財閥は戦前の日本経済のみならず、国家運営も支えていくことになります。
地区内でも最も意匠に優れた建築でしょう。
大正初期に東京駅の丸の内の煉瓦駅舎ができたわけですが、このビルも同時期の完成です。当時は煉瓦製の建築が流行だったのでしょうか。
平成期には解体が決まっていたところが、地元民の反対運動により今日まで保存されることになったようですね。感謝しかありません。現在でも若松地区のランドマークかと思いますし、このビルがなければ同地区の観光客の注目度はより低いものになっていたのではないでしょうか。
そして、最後の証人がこちら。旧三菱合資会社若松ビルです。完成は1913(大正2)年、筑豊炭田で飯塚地域を中心に保有していた三菱財閥の炭鉱・石炭の輸送拠点として設けられたビルとなっています。
1969(昭和44)年までは三菱の事務所として利用され、その後上野海運の事務所として現在も活躍中。
個人的には適度に年月を魅力に変えて身にまとっている感じが好感度高いです。いぶし銀の俳優さんのような感じ。
上野ビルの2,3階は店舗が入居中でビル内に入ることも可能です。天井のステンドグラスから吹き抜けの回廊に光が入る空間は唯一無二かと。時間の都合で叶いませんでしたが、再訪時は見学することにします。
なお、今回紹介した上陸場から本ビルまでの全建築が徒歩3分圏内(!!)に密集しており、界隈の人には堪らない濃厚な時間を過ごすことができますよ。
若戸渡船
上野ビルまで見学したらぜひこちらも覗いてみてください。若戸渡船、対岸の戸畑までを海上で結んでくれています。
移動手段として関東圏ではあまり馴染みのない渡船ですが、関西では大阪の湾岸部をはじめ瀬戸内の離島等では日常の大動脈となっているケースが多い印象です。海外旅行でよく感じるのですが、誰かの日常は誰かにとっての非日常、それを感じられる場所でございます。
対岸の戸畑の乗り場までは3分。そこからJR戸畑駅までは歩いて7分ほど。海を隔ててながらも、若松と戸畑は同エリアと認識しても良さそうですね。
おまけ
商店街を抜けて
港から内陸へ少し行くと駅へ延びる商店街 エスト本町がありますので、こちらを巡りながら駅へ向かいます。
かつて私の最寄り駅に遭った商店街と似た佇まいです。この中に店を構えることがステイタス。そんな時代もあつたのでしょう。ただ、、
土曜日の夕暮れ時ながらすれ違う人はなし。わずかに空いている店も18時までにはシャッターを下ろしてしまうよう。北九州の夜は長いです。
銀天街を出て目の前の若戸大橋の高架橋をくぐりますと、若松の裏の顔ともいえる商店街がお出迎えしてくれます。
どこか東南アジアの屋台のような商店街がお出迎えです。アーケード入口の店舗がかろうじて生き残っていますが、
こちらも内部は厳しい様子。タイルコンクリート敷きの通路なのは魚介類を扱う店舗が多かったためでしょうか。視界をねこ殿が横切ることも。
かつては駅とこのあたりの自宅を行き来す方が多くいらしたのでしょう。自動車の普及で失われたそのような暮らしを思い出話のように、商店街が語ってくれている、そんな気もしてきます。
こちらはいくつかの飲食店が見られました。今の時代、自動車から見える立地ならば、再訪に繋がるのかもしれません。さらに西へ進んでいくと足を止めずにはいられないものが見えてまいりました。
駅から数分、隣にパチ屋という好立地。現在も多くの店舗が入居しているのは地元の方に慕われているからでしょうか。中へ入ってみましょう。
1階には10店舗近くが入っているでしょうか。通路はクランク状になっており、奥様に隠れて飲んでいても「見られてしまった!」ということが起きないように?なっています。通路を抜けると建物の背中側へ。
ここは登らず。時間がないことを理由にしました、少々怖気づいたところも正直あったり。まだまだ鍛錬が足りませんね。
ここで本日の夕食へ向かおうと思います。
地域経済を回そう!
旅を嗜みながらやることは専ら写真撮影。それでは地域の何の役にも立っていないではないか。というわけで、食事くらいは地域のお店楽しみことを意識している今日この頃です。向かったのは、福岡といえばのあの料理のお店です。
その名も 鉄なべさん。そのまますぎる名前がまた好印象です。白いファサードも純白な餃子の皮をイメージしたという(想像)・・。
カウンター席が奥に向かって数席あるこじんまりした店内。先客は一人、餃子とビールを嗜んでおられました。お店の方はご家族でしょうか、20代前後のお兄ちゃんが餃子を焼きながら、同世代と思しきお姉ちゃんがお冷を手配してくれます。女将が次々に来る電話で出前注文を受け、大将は黙々と餃子を包んでいます。あぁ来て良かった。
酒気帯び運転を禁じた道路交通法が私をビールから遠ざけましたが、これほどこの法を恨んだことがあったでしょうか。。今回は餃子1人前とちゃんぽんを頂くことにします。待っている間もテイクアウトの注文・受け取りのお客さんが次々と来店します。お店でなく自宅で頂くのが若松スタイルのようですね。
まずいはずがありませんね。餃子で満腹になりたいのなら2人前がおススメです。ちゃんぽんは五目タンメンのような優しい味でしたが、餃子と合わせるにはこの方が良いかもしれません。ごちそうさまでした。
再び商店街探索に戻ります。大正町商店街から銀天街へ戻り、右手に折れたところ。賑わいから一歩身を引くような路地を進むと、
料亭金鍋さんがお出迎えしてくれます。創業は1895年(明治28年)、若松港と共に歩んできた若松を代表する老舗です。明治末期から大正初期に建てられた店舗では、創業来の牛鍋を頂けるのだとか。
私のような小僧は息を呑んでしまうのですが、寒空の下で温かな灯りに包まれる気分は悪くないものでした。それでは俗性に戻りましょう。
こちらは、旧住友銀行若松支店の跡地なのだそう。金融・商業がこの若松に集積していたことを改めて実感します。
エスト本町を抜けると、続いてアーケードのないウェル本町という商店街へ。
筑豊本線の終着 若松駅
最後に、今回の訪問のきっかけとなったポツンと終着駅の若松駅へやってまいりました。
現在は30分に1本ほど、直方や折尾へ向かう列車が発車していく落ち着いた駅でございます。とはいえ本線級の終着駅かつ、全盛期には貨物の取扱量で日本一を誇った駅でございます。往年の姿、ご覧ください。
これほどの側線が!
写真下部の黒い箇所は恐らく石炭を積み上げていた場所でしょう。若松駅の転換点となったのは1960年代のエネルギー革命。殷賑を極めた筑豊でも各地で炭鉱が閉山となっていきます。そしてそれは積出港としての若松の灯が消えることも意味しておりました。
1982年(昭和47)年には設立のきっかけとなった貨物の取り扱いも停止。その後、広大な構内の側線も剥され、現在のこじんまりとした駅が残されたのでありました。
というわけで、若松駅がポツンと残された(ように見える)のは、国内から石炭産業が消滅しこの場所に所在することが想起できない時代になったためでした。
おしまい。対岸の戸畑の様子はこちら
コメント