レンガトンネルに両端を挟まれた田浦駅を楽しみましたので、続いて駅前を見ていきましょう(前回はこちら↓)
補給のみち
これから巡るのは横須賀軍港関連施設です。
横須賀の軍港の歴史を紐解くと、1866年ペリー来航で海軍の必要性を痛感した時の幕府が横須賀製鉄所をこの地に開設したことに始まります。1884年(明治17年)にそれらを引き継ぐ形で海軍が鎮守府を設置します。その後、先の大戦でその管理者が米海軍、海上自衛隊に代り、現在に至ります。
そんな横須賀軍港は横須賀駅周辺の横須賀本港地区、そしてこの田浦駅周辺の長浦地区に大きく2分されまして、今回は長浦地区を中心にご紹介していきます。
駅を出ると経済活動のみが感じられます。無機質な街並みに曇天がよく似合いますが、かような工業地帯を休日に巡る面白さは、人工物の多さに比べ人通りが少なく、自分だけが取り残されてしまったかのようなSFじみた経験ができるところでしょうか。さらに進んでいきます。
ノコギリ屋根、トラックに廃倉庫。絵に描いたような工場地帯の組み合わせです。倉庫の前の看板には、
国有地の文字。重要防衛施設の周辺ということで、用途が無くなった現在も国が管理している。そんな感じでしょうか。この倉庫前、よく見てみると、、、
レールが!!
相模運輸倉庫社の専用線跡です。同社はこの界隈の倉庫も管理・運用し、海上自衛隊等の物資輸送を担ってきました。輸送手段を自動車に転換したためか、専用線は1998年(平成10年)ごろに廃止されています。
実は田浦駅周辺には廃線跡が残っているという予備知識はあったのですが、改めて実際に目にすると嬉しいものです。敷かれたレールに従うのはキライではないので、ここは線路が向かう方へ進んでみようと思います。
この界隈のレールは複雑怪奇なので、まず全体像の大まかにをお示ししたいと思います。
田浦駅から分岐した貨物線は分岐や合流を繰り返し、田浦駅周辺を巡っていたようです。地図上に「補給所」とあるように、長浦地区は横須賀本校地区の補給基地のような立ち位置であったため、効率よく物資を輸送すべくかように複雑な貨物線が敷設されたのでしょう。今回の散策では地図で「自衛隊第2術科学校」と示されたエリアから「長浦町」と示されたエリアに向かって東進していきます。
まずやってきたのは海上自衛隊 艦船補給処。「調達、保管、補給及び整備」を行う部署です。自衛隊の資材確保はこの部署が担い、その発注を相模運輸が支えていたという構図ではないでしょうか。
補給処付近にあるこちらは、1922年(大正10年)に竣工した旧第二計器庫。
続いて、旧海軍軍需部長浦倉庫と呼ばれるこちら。現在は相模運輸倉庫の施設となっています。あまりの大きさと錆びの風合いが気になり予備知識なく撮影したもので、それほど界隈でも目を引く存在です。戦前の軍事建築がこの規模で残されているのも珍しいのではないでしょうか。軍港の歴史に想いを馳せつつ、当時の建物が実際に今に残されているのが田浦駅周辺の面白さです。
物々しい区画も。重要防衛施設であるのか、はたまたカモフラージュなのか。分かりませんが、おかげさまで楽しませていただいております。
民需も担う横須賀港
軍港のイメージが強い横須賀ですが、それだけではありません。田浦駅から東へ少し進んだところ、横須賀税関支署と横須賀海上保安部が設置されています。横須賀港は貿易港としても機能しており、その輸出品目の9割が自動車と船舶という特徴的な港となっています。
自動車はおそらく市内に所在する日産自動車追浜工場によるところが大きそうです。その歴史を紐解くと横須賀海軍航空隊の跡地が軍用車のスクラップヤードとして、そして日産の自動車工場へと姿を変えてきています。自動車産業が戦後突発的に生まれたようにも見えますが、戦前から軍需目的で培われた技術の上に成り立っているということができるでしょう。
日産自動車は目にできませんでしたが、船舶の一翼を担っているであろう住友重機械工業の横須賀造船所を見ることができます。
廃線の先
最後に廃線に従い、東進してみましょう。合同庁舎前で合流したレールはその先で、
往年の姿を取り戻します。やはりこうでなくちゃですね。この先も見どころが続きまして、
ダイヤモンドクロッシング!
関東で目にできる場所はかなり珍しいのではないでしょうか。国内でも現役のものは名鉄、とさでん、伊予鉄の3か所のみ。
実は私も現物ははじめましてでありまして、1人盛り上がっていたところです。
自動車では珍しくない”交差点”ですが、鉄道では珍しい存在です。ダイヤ策定の制約があるのかその数は減少傾向のようです。
直交する2路線を結ぶ短絡線の跡も残っていますが、こちらは大地の力に呑み込まれかけていました。
そして最後にやって来たのが比与宇トンネル。何の変哲もない道路トンネルですが、この枕詞がつく場所に「何の変哲もない」場所はないわけです。変哲って何でしょうね、、まぁいいか。
こちらも列記とした軍需施設の1つ。前述の廃線はこのトンネル内まで延びていて、かつては道路・鉄道共用トンネルとして使われていたそうです。現在ではレールを確認できませんが、十数年前までは残されていたようで、グーグルマップで同施設を調べると諸先輩方の貴重な記録を見ることができるのでおすすめです。
意匠のごとくブロックが積まれていますが、こちらは当初存在した脇穴を埋め合わせたもの。この脇穴は弾薬庫と繋がっていて、往年は貨車で運んだ資材を敵機から見えないようにトンネル内で積み降ろしできる構造になっていたんだそうです。
出口に残る「トンネル内 線路注意」の案内。いずれ判読も難しくなるかもしれませんね。
トンネルの先はGoogle Map上では海上自衛隊 横須賀警備隊となっている区画。ただどう見ても米海軍施設のような雰囲気。
その先には比与宇トンネルと並行に掘られたトンネルと思しき場所を発見。堅牢な造りで、前述の弾薬庫への入口になっていたのでしょうか。向かい側に目をやると、
横浜DeNAベイスターズ 総合練習場の跡地です。老朽化のため2019年(平成31年)に追浜にある横須賀スタジアムに移転となっています。
なぜこんな山際、海際の狭あいな場所に建設したのか違和感があったのですが、マルハニチロの倉庫跡に建設されたということで、経営資源の効率利用的な部分が重視されたのでしょう。同社はベイスターズの前身、大洋ホエールズの親会社であり、それをTBS、さらにはDeNAが引き継いできています。かようなオーナー会社の変遷からも時代の業界というのが見えてきましょうか。
横須賀本港へ至るみち
さて、田浦、長浦地区を後にし、ここからは横須賀本港地区を目指していきます。まず
横須賀線田の浦踏切脇のこちらは、轢死者供養の塔というものでブラタモリでも紹介されたのだそう。目の付け所がさすがとしかいえません。
田浦駅から西へ進んだ場所にも「轢死者溺死者追弔塔」があり、相当数の方が亡くなられてきたのでしょうか。現在では静かな住宅地という印象ですが、往年は人の往来も多かったのでしょう。
供養の塔から脇道に逸れ、丘の上に建つ 安針台公園へ向かいます。
ここからは横須賀本港を「がんばれば」一望することができます。頑張る必要があるのは、暖かい季節は草が繁茂し自然の力を見せつけてくるためです。
船舶、軍事関連の知識は皆無のため余計なことは書きませんが、そんな私が訪れてもワクワクする場所であったのは間違いありません。京浜急行の安針塚駅から徒歩10分程度の場所です。
最後に、JR横須賀駅に向かって国道16号線を歩いていきます。
並走する横須賀線同様、この国道もまた軍需のため良い意味で「無理して」作られた雰囲気を感じ取ることができます。大正期から昭和初期に完成し、軍港へ至る道として意匠を凝らしたトンネルたちは横須賀隧道群として界隈の皆さんを楽しませています。厚木、横田、入間と基地近辺を通る国道16号が横須賀までやってくるのには何か国防上の理由もあるんでしょうかね。
大幹線 国道16号線をかような旧時代のインフラが支えているギャップがたまりません。左手が逸見隧道で1928年(昭和3年)、新逸見隧道は1944年(昭和19年)の完成。
ライダーやサイクリストの皆さんを何度か見かけましたが、このあたりの独特な雰囲気をどのように感じ取っていられるのか、違う見方を聞いてみたいものです。
横須賀らしさ。それは地形の限界に挑む人間の営みにあるかもしれません。例えばこちら。
岩塊が家並に溶け込んでいます。その上、岩塊は倉庫としても利用されています。個人の力でかようなことは難しいはずですが、公の施設にも見えませんし、はてはて。
こちらもまたある種の横須賀らしさでもありましょうか。
そして、
JR横須賀駅に到着!
海上自衛隊横須賀基地のすぐそば、市街地からは大きく離れた立地となっていて、改めて横須賀線の建設背景を感じます。
駅の造りもまた特徴的で、階段の上り下りをせずに列車の乗降ができる構造になっています。諸説ありますが、横須賀を訪れる天皇陛下を見下ろすことがないようにするため、また物資輸送の利便性を高めるためともいわれておりますが、いずれにせよ横須賀駅の当初の性格を今に伝えてくれています。
3kmほどの行程でしたがなかなか見どころのある散策でございました。スカイブルーの列車に揺られ、皆さんもぜひ訪れてみてください。
おしまい
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