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門司を見守り続けた高級料亭
2019年8月、門司港の高級料亭 三宜楼(さんきろう)跡にやってまいりました。
1931年(昭和6年)の新築以降、大戦を前に門司の社交場として大いに賑わった料亭でした。ただ、戦後、跡継ぎの問題などがあり廃業。その後は、住居として使用されていましたが、その住人もまた2000年代に亡くなってしまうと建物の売却が取り沙汰されるようになります。当時の様子がこちら
入口脇にお花が咲いていますが、どこか近寄りがたい雰囲気。
当時は、高層かつ広大にも関わらず寂れたこの建物は正直不気味であまり良い印象は持てませんでした。そのような状況を憂い、立ち上がったのは往年の三宜楼を知る地元門司の方々。署名や寄付活動を行い、北九州市との協働もしながらも、2014年に公開までこぎつけたということです。
では、中に入ってみましょう。
玄関入ってすぐ目の前に現れるこの廊下。右側のふすまの中でお食事を楽しむことができます。
展示資料には各界の著名人の顔が並びます。先述の出光 佐三も愛用していたんですね。
ある年代では非常に著名な方だなようですが、存じ上げませんでした。ただ、この愛嬌のある似顔絵から、その人柄が伝わってくるような気がします。
利用者が心地よく過ごせるような工夫から、当時のサービス水準の高さが伺えます。2階に上がってみましょう。
40名近く収容できる大広間。貸し出し中でなければ、見学することができます。
現在は、半日2,000円で借りることができるとか。往年からしたら破格でしょう。
大広間を一通り見学したら、最後は貸し出しはされておらず見学のみが可能な3階へ進みます。
ちなみにですが、建物のリニューアルに当たり計画以上に費用が掛かってしまったので、公開スペースを1,2階に限ることでなんとかオープンにこぎつけたんだそうです。見学できるようになるまで、各所で調整が重ねられたのでしょう。北九州の方々に感謝です。
床の間には高浜 虚子が詠んだ言われる俳句。
素晴らしいものです。建設当初はビルも少なく、対岸 下関が良く見えたといいます。
3階の見所の一つがこちら。分かりにくいですが屋根と窓部分を繋ぐこの柱。1本の木から作られたものだそうで、10m以上の長さがあります。どうやって運んできたんだ
美しいものです。
ここには、興味深いものが二つ。まずはこちら
廊下に面した扉なのですが、よく見ると
NHKのマークや「菊地」さんの表札が!
この建物が料亭 三宜楼として役目を終えた後、集合住宅として第二の人生を歩んでいた頃の名残なんですね。
急に親近感が湧いてきます。もう一つは2階へ下る階段横にあるこのお部屋。
この部屋は通称ちょんの間ということです。大広間で宴会を楽しんだ方々が「そのあと」を楽しむ場所だったということです。なるほど。ガイドのご婦人が素敵な大人の笑顔でご紹介くださいました。ありがとうございます。
抜かりない気遣い。ここでしか味わえない接客が三宜楼を支えていたんでしょうね。
見どころたくさんの3階はガイドの方に同伴すれば見学が可能ですので、お声掛けすることをおすすめします。そんな見所満載の三宜楼でした。現在は下関の高級ふぐ料理屋 春帆楼の支店として営業していますので、お食事と一緒にお楽しみください。
見学を終えたのが丁度お昼過ぎ。ただ、帰りの飛行機は夕方に山口宇部空港発でまだ時間がある。どうしたものか・・・じゃあ
本場の春帆楼を見に行くか
ということに。思いつきにもほどがありますが、ここから車で20分弱。それほど門司・下関間は隣接しているのです。
再び本州へ
ということで再び海峡を越え、本家本元 下関 春帆楼へやってきました。
やってきたと言っても食事をするためではなく、1895年(明治28年) 日清戦争を終結させた下関条約締結の地を見に来たのでありました。
この建物で条約締結が!
というわけではなく、あくまでこちらは記念館。実際に締結された会場は先代の春帆楼の建物内にあったのですが先の大戦で焼失してしまったんだそう。この地で始まった列強の仲間入りは、米国によりその建物と共に終止符が打たれたのでありました。この記念館では当時の会談会場(再現)や資料を見学することができます。
歴史の教科書で定番のこちら。現地で見ますと、
ご覧の様子。絵画とはまた違った印象に見えます。この場所に臨んだ清国全権 李 鴻章はどのような心持ちだったのでしょうか。そして小国日本は萩に暮らす農家のせがれだった伊藤 博文。維新を経て、地元山口で大国 清に講和条約を結ばせた時の心情はどのようなものだったのでしょうか。交渉のテーブルに向き合うと、ふとそんなことを考えてしまいます。
条約の内容は、朝鮮の自主独立の容認、台湾・遼東半島の割譲や賠償金2億両(テール)など清にとってかなり厳しい内容でありました。2億両はWikiによると日本の国家予算の4倍、現在に換算すれば400兆円と巨額になります。とはいえ第一次大戦後、法外な賠償金請求によりナチスの台頭を許すまでは一般的な戦後処理であったのでしょうが。
この記念館には多くのアジア系の観光客の方がいらっしゃっていました。それぞれ思うところがあるでしょう。記念館を後にし、日本史をもう700年ほど遡ることにします。
赤間神宮は、1185年 壇ノ浦の戦いで亡くなった安徳天皇を祀っています。源氏・平家の騒乱に翻弄され幼く入水する運命となった彼は、歴代天皇の中で最も在位期間が短く、唯一戦で命を落とした天皇でもあります。
その他平家一門の墓、七盛塚、小泉 八雲の怪談で有名な「耳なし芳一(ほいち)」の木像が祭られている芳一堂、「長門本平家物語」「源平合戦図」など貴重な資料のある宝物殿等があります。
門司の三宜楼に続きここにも高浜 虚子。この句に詠まれたのが
おまけ
所定の場所以外は成就しません
おまけ②
ぬっ!?
これにて3泊4日の中国横断の旅は終了!中国地方は個人的に未開の地だったわけですが、賑わいとレトロ感が良い具合に両立した素敵なエリアだと感じました。まだまだ見たりませんなぁ。今度は山陽路からも攻めてみたいと思います。
おしまい
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