2023年1月14日(土)、この日は季節外れの雨。悪天候で着陸も危ぶまれる中、北九州空港になんとか辿り着きました。靄に包まれる連絡橋を渡り、今回は戦前から戦後にかけて日本経済をけん引してきた北九州、その暮らしを支えた街並みを巡ります。
レンタカーに乗り込み、最初の目的地へ
本町商店街
北九州の中心街 小倉から車で10分。道中の国道3号線は起伏に富み、90万都市 北九州が険しい地形の上にあるのだと実感させられます。
そんな傾斜地の麓に建つのが枝光本町商店街です。日本の近代史上欠かすことのできない八幡製鉄所。1901年(明治34年)の設立以降、付近には関連企業が進出しますが、そこで働く人々の暮らしを支えてきた場所でございます。商店街は製鉄所の敷地と枝光八幡宮を結ぶ緩やかな坂の途中にあり、かつては八幡製鉄所の本館その”門前町”として人々の暮らしを支えてきました。
「山へ山へと八幡はのぼる はがねつむように家がたつ」
1930年(昭和5年)に八幡を訪れた詩人の北原 白秋は製鉄所の殷賑を象徴する、傾斜地に軒を連ねた家々を眺め小唄に遺しています。しかし、国や地域の根幹を支えた製鉄所も設立から半世紀ほど経つと、その立ち位置が変わって参ります。大きなものはエネルギー革命とそれに伴う合理化です。
1960年代以降、八幡地区の製鉄所や事務所をお隣 戸畑地区に移転・集中させる動きが進みはじめると、次第に商店街の賑わいにも陰りが見え始めます。1985年(昭和60年)には商店街の入口付近に停留所を設けていた西鉄北九州線が廃止、1991年(平成3年)の新日鐵本事務所の解体時期にもなると、商店街は急速に衰退していったといいます。
90年代は郊外にイオンなど大型商業施設が建ち始めた時期でもありますから、大規模小売店舗立地法による規制緩和が衰退の流れに拍車をかけたのでしょう。現在の商店街の店舗入居率は40%といったところでしょうか。。とはいえその結束力は未だに高いようで、このようなのぼり旗や、
自作のポスター掲示が各所に見られ、静かな活気を感じることができます。地方の商店街は沢山見てきましたが、これほど活動が活発なところも珍しいのではないでしょうか。
その中でも特に印象的だったのがこちら、
商店街を高頻度で発着する枝光やまさか乗合タクシーです。空へ上るように住居が斜面地に広がる枝光地区で移動の足として使われているのでしょう、ご高齢の方が数名乗り降りする光景が見られました。こちらは各地で見かける自治体運営のコミュニティバス・・ではなく、地元企業 光タクシーさんが主導で運行しているバスなのだそう。
製鉄所の縮小という逆風を言い訳にできるような状況でも、枝光の人々は自らで地域を盛り上げようと動かれていました。頭が上がりません。
店舗はだいぶ少なくなったものの、残り店舗にはしっかりお客さんが残っているようですね。
砂ズリは関東でいう砂肝でしょうか。いつからかこうした文化の違いに触れることが嬉しい体になってしまいました。串が非常にリーズナブル!かしわうどんで満腹でなければ頂戴したかったので、今後の備忘のためこちらでご紹介しておきます。
商店街を抜けても素敵な薬屋さんが。角地に建つ建築はオシャレさんが多いですね。ついカメラを向けたくなってしまうのは私だけではないでしょう。
中央商店街
本町商店街の横腹から垂直に伸びるアーケードを発見。枝光中央商店街とありますが、入場は難しそうです。
日常では保守的な人柄と見られることの多い筆者なのですが、不思議と旅行先では積極的になってしまいます。どうにかして様子を伺いたい。。反対側の入口を目指します。
いや、好奇心のまま動いてよかった。さらに味わい溢れるゲートが迎えてくれました。
ショッピングセンターと称した方が利用者にウケた時代もあったんでしょうね。大型商業施設に対し、人情味がある点が商店街のウリである昨今。人々の嗜好も変わってきたのでしょう。では、いざ入場
覗いてみると様子が少々おかしいですね。進んでみます。
何やらただ事ではない様子ですね。。
調べてみると、2022年(令和5年)10月に発生した火災の爪痕なのだそう。幸い死傷者は出なかったものの、商店街の木造アーケード、9店舗ほか数棟が焼損することになりました。つい先日も小倉の旦過市場で大規模火災が発生しており、枝光の皆さんも消火器を新調していた矢先の出来事だったようで、ショックは大きいですよね。
これを教訓に他の商店街の被害が少しでも軽減されるのを願うしかありません。
前述の光タクシーさんを発見!北九州では最もタクシー会社だそうで、その歴史は100年超!大正期、第一大戦の特需に沸く八幡の街で創業者の市場 重光 氏が人力車会社を始め、現在に至っています。その当時の様子がこちら。
これが住居が空に向かって登ってゆく街の活気・・・北九州は今でも日本有数の都市ですが、この時ばかりは随一だったのでしょう。地元と共に過ごした100年の月日が、前述の乗合タクシーの取り組みに繋がっているのでしょう。
商店街を後にし周辺をプラついてみます。
裏路地を歩いていると、目を引く建築を発見。意匠が凝らされた外壁ながら、公営の団地住宅なのだとか!人を外見で判断することはあまり好ましくありませんが、50歳は越えていそうな佇まいで、製鉄所全盛の時代、自治体も潤沢な資金を有していたことが伺えます。
1階に店舗が入るのは団地あるある。製鉄所に勤め、最新鋭の団地に住む込み、休日はオシャレをして電車で小倉の街へ。高度経済成長の一端に触れられた気がします。
外壁の格子部分が網で覆われていますが鳩害防止のためでしょうか。ネット上で見かけた2010年代の写真では確認できなかったもので、最近設置されたものでしょう。
以上、商店街周辺の散策でございました。最後に少し足を延ばして、本業の鉄道と八幡の街並みを高台から眺めてみることにします。
くろがねの道
枝光商店街から北へ数分歩いたところにJR枝光駅があります。その手前、頭上を越えてゆくのが、
くろがね線(炭滓線)です。八幡地区と戸畑地区を結ぶ日本製鉄社の専用鉄道です。1930年(昭和5)に完成し、両地区間で製鉄の滓(石炭や鉄のカス)や製品の輸送に用いられてきました。とはいえ街並みに溶け込んでいて、これが貨物専用線とは一見して分かりません。
八幡地区へ銑鉄を運び、その精錬の過程で発生した滓を戸畑地区へ運びました。そして滓は戸畑地区の埋め立て・拡張に用いられ、商店街に強烈な一打となった戸畑地区への製鉄機能集約に繋がっていきます。集約により、両地区間の輸送量が減少したため、複線だったくろがね線は現在では単線運用となっています。
左手に小さく見える煙突とタンク群が東田第一高炉跡。
八幡の灯が初めてともった歴史的な場所でもありますが、1972年(昭和47年)に操業を停止。縮小された八幡地区の象徴でもあります。
総延長1,179mの宮田山トンネル。製鉄所がこの専用鉄道に期待した役割が相当のものだったのでしょう。
望玄坂 山へ山へと八幡はのぼる
最後に白秋が遺した八幡の街並みを見ていきましょう。
畑ならぬ段々住居群。製鉄所の経済力がこの景観を生んだと言っても過言ではないでしょう。そして、宮田山トンネル上までやって来ると、、
果てしない坂道に見えるのは、日ごろの運動不足のせいでしょうか(震え声)
この坂は、その名も望玄坂。玄界灘を望む坂ということでしょうか。良い眺めが期待できますよ?後悔しますよ?行くしかないですねっ!そう自分に言い聞かせ、歩みを始めます。
八幡製鐵所の文字だけで嬉しくなります。くろがね線に併設された鉄管でガスでも運んでいるのでしょうか。
振り返るのが楽しみで気づけばノリノリで坂を登り続けていきました。そんな私の横を眩しい生徒さんたちが帰宅していきます。坂の頂上に建つ九州国際大学付属高校の生徒さんたち。福岡県有数の進学校ながら甲子園にも出場する文武両道学校。そんな生徒の心身を鍛える望玄坂は、同校が誇る無二の凄腕教師かもしれません。そんな方と出会えて私も光栄です。そして・・
登頂!!
何があるわけではないですが、八幡の暮らしを身体で感じることができました。
この先の様子も気になるところですが、ここでお時間。坂を下り、続く目的地 戸畑を目指します。
つづく
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