不名誉な称号?
武蔵村山市
東京都内、中央部よりやや西方に位置するこの自治体は、ある話題で良く取り上げられる場所です。それは
都内唯一鉄道が走らない市
であるため。
公共交通機関の利用が一般的である東京都内においてこの称号は、役所をはじめ市民にとっては相当のコンプレックスであるようです。そんな武蔵村山市の白馬の騎士とならんとするのが、お隣の東大和市の上北台まで顔を出している多摩都市モノレール
このモノレールを、
上北台から武蔵村山市を通り、瑞穂町にある八高線 箱根ケ崎駅まで延伸しようとする計画
がありまして、今年度ついに、事業主体である東京都が予算を計上したのでありました。
前身の村山村、村山町、そして武蔵村山市にとって初めての鉄軌道。そのレールは、市にとって長年のコンプレックスを照らす一筋の光となることでしょう。。。
実は、今の文章には1つ虚実が混ざっています。それは、初めての鉄軌道というところ。そうなんです。実は、かつてこの武蔵村山の地には、市内を横断する鉄道が存在していたのです。その名も
羽村山口軽便鉄道
というわけで今回は、その幻の鉄道の跡地を辿ってまいります。
どんな路線だったんだ
一言で言えば、都民の生活を支えた重要幹線
でした。え、本当に?まずは大まかなルートをお示ししましょう。
その名のとおり、
JR青梅線の駅がある東京都の羽村市から、西武ドーム近くにある埼玉県の村山・山口貯水池まで
を結んでおりました。都心から郊外に向けて放射状に延びる路線が多い東京において、かなり特異な方向に敷設されています。この謎を解くには、本路線の目的地である両貯水池が生まれた経緯の説明が欠かせません。
明治期以降、急激な人口増加となった東京では、生活インフラ不足が問題となります。そこで東京市(現23区)は、狭山丘陵付近にあった窪地をふさぐ形で大きな堰を建設。その窪地に多摩川の水を引き入れ水がめをつくることで、生活用水の安定供給化を計画します。そうして1927年(昭和2年)に完成したのが南側の村山貯水池。1934年(昭和9年)には北側の山口貯水池がつくられました。
そして、両貯水池を建設するための砂利を運搬する目的に敷設されたのが羽村山口軽便鉄道でした。そんな経緯で生まれたこともあり、旅客を運ぶことを目的としている現在の鉄道路線と比較して、異質なルートを走っています。また、この路線の下には先述した羽村市を流れる多摩川から取り入れた水を、両貯水池に送る導水管が埋設されています。資材輸送と水管埋設を両立するために十分に練られた建設計画だったんですね。
それでは、前置きが長くなりました。実際に廃線跡を辿っていきましょう。
実際に行ってみた
はい、トリビアの泉風です笑
今回は時間の都合もあるため、米軍横田基地の東側に存在するIHI瑞穂工場付近からスタートします。同工場ではジェットエンジンの整備・点検が行われています。
まず現れたのは、フェンスで囲まれた細長い空き地。一見何もありませんが、そこには東京都水道局の文字が。場所はこの辺り
この横田基地から狭山丘陵に至るまでの区間は、現在、野山北公園自転車道として整備されているため、合法的に廃線跡を満喫することができるのです。それでは行きましょう!
まずは軽便鉄道の概要です。羽村山口軽便鉄道は羽村市と両貯水池を結びました。厳密には3つの時期に分けて、線路が敷設されていた歴史があります。まずは1920年(大正10年)に村山貯水池を建設するため羽村・村山線が敷設されます。区間としては多摩川の羽村堰から後述の横田トンネル付近までを結びました。それまで建設資材を現在の青梅線、中央線、西武国分寺線を経由していたものを、「直営鉄道で運んだ方が便利だよね」ということで、建設が決まったようです。貯水池の完成に合わせて1924年(大正13年)に線路は撤去されます。
その後、羽村・村山線の跡地に羽村・山口線が1929年(昭和4年)に敷設されます。こちらは山口貯水池の建設に合わせた動きでして、区間も羽村堰から山口貯水池堰堤までを結んでいました。貯水池完成に合わせて1933年(昭和8年)に廃止されました。
そして最後は堰堤のかさ上げ工事の時期、戦中の1943年ごろに利用され、軽便鉄道は役目を終えることになります。今回は、約80年近く前の痕跡を探していこうというわけです。
自転車道はこちら側に窓を設けるお宅が多く、各家の様子をうかがい知ることができます。例えば、、
油断するぬこ殿笑 癒されます。
お家を背面からじっくり眺めるのはどこか後ろめたさがありますが、各お宅からすれば採光は確保されるわけですから良いのでしょう。住宅地を抜けてしばらくすると、
以降、基本的にこのような緑道化された眺めが続いていきます。
軽便鉄道は往年、28両の機関車(蒸気2両、ガス20両、ディーゼル6両)と450両以上のナベトロと呼ばれる貨車が往来していました。またおよそ10km近い区間内には5か所の交換設備が設けられていたそうで、結構な賑わいだったことが伺えます。現在の姿から想起するのはなかなか難しいですね。
昭島駅からバスでもやって来られるようですね。椅子の数も種類も豊富。朝なんかは利用者が多いんでしょうか。
バス停の近くで、街並みを見守るように建っていたのは、馬頭観世音碑。こちらは1871年に設けられたようですが、馬頭観世音とは?どういうものなのか分からず、Wikipediaで調べてみますと
近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。(中略)なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。
当地は街道筋ということもないですから、後者の意味合いが強そうですね。いずれにせよ、当時からこの場所に人の営みがあったことを後世に伝えてくれている存在のようです。
観世音碑を後に、再び歩を進めます。
ですが、その経営方法が独特でありますね。このロッカーって市営プールなんかにあったやつですよね。久方ぶりの再会。
豆から挽いたら、自宅でもおいしいコーヒーが飲めるのでしょうか。めんどくさりの私ですがコーヒーは愛飲しており、うまさと手間、一度天秤にかけて試してみたいところです。
小学校のプールあたりに置いてきてしまった童心が呼び起こされます。
ちなみに、ネタバレになりますが、こちらが道中見かけた唯一の遊歩道沿いの店舗となります。散策には飲み物とお菓子を持参するのが良いでしょう。続いて現れたのが、
屋内型の流れるプールでもあるのでしょうか?
なるほど。我が家にもありました流水プール。反対側に目をやると、
体育館2つ分ほどの空間が残っています。現在、東京都水道局が管理するこの場所に、かつて残堀採石場という軽便鉄道の関連施設がありました。軽便鉄道は厳密には、羽村堰から採石場まで砂利を運ぶ列車と、採石場から堰堤まで破砕した砂利を運ぶ2列車に分かれていました。羽村からきた列車は採石場にあった桟橋に乗り上げて、ホッパーに砂利を落とします。そうして破砕したものを別列車に積み込むというリレー方式が取られていたんですね。
残堀川を越えて
このあたりの主要な流れである残堀川を渡ります。瑞穂町の狭山池に湧き、立川を経て、多摩川へ注いでいます。
残念ながらこの場所からは面影を感じることはできませんでした。廃線跡を辿ると、河川を渡る箇所には橋台が残っていたりして往時の面影に触れられたりするのですが。
ただ、さらに進んでいきますとこのあたりは複線区間だったのか、はたまた側線が並んでいたのか、遊歩道の幅が広くなっています。進行方向左手にある林の中には、
面影発見!
この場所は立入禁止になっていて、これ以上近づくことができません。
敷地は、引込線の跡地。貨物用プラットフォームの基礎?の跡が残されており、敷地の広さからも含めて、貨物駅らしい雰囲気を微かに感じることができるでしょうか。
横丁川を渡る橋も2線分ありそうですね。と、思案するのが楽しい区間です。
廃線から80年近く経っていますから仕方ありません。
と、ここで、
案内看板が登場!ありがたい!写真があると分かりやすいですね。
羽村方面からやってき列車がこの桟橋に乗り上げて、砂利を落としていたわけですか。
新青梅街道と交差する場所までやってきました。
実は、この拡幅に合わせて多摩都市モノレールの延伸計画が同時並行で進められています。拡幅した新青梅街道の上空をモノレールが遊覧する計画で、数年後、この辺りの眺め一変しているかもしれませんね。将来この場所は武蔵村山市の歴代の鉄軌道が交差する場所になるというのは胸が熱いです。
さらに進んでいきますよ!
このあたりの地域ですと狭山茶が有名ですが、ご近所であるこの武蔵村山市も環境は似ているでしょうから、茶の栽培に適した水はけの良い土壌や涼しすぎない気候があるのでしょう。
この自転車道は、先ほどご紹介した残堀川をはじめ、上のようないくつもの水の流れを越えていきます。
東西方向にのびる狭山丘陵に降り注いだ雨が南方に流れ出しているからなのだと思われます。武蔵野と呼ばれる西東京の地域は水の確保に悩まされたと聞いたことがありましたが、こうして現地に行ってみますと水の流れも多く、知識とは違う現実を見ることもできます。これは旅の醍醐味の1つです。
自転車道は、このあたりから北方へ進路を変え、いよいよ貯水池を抱く狭山丘陵へと向かっていきます。
今回の散策の目的でもある、とある区間に差し掛かっていきます。
住宅地にある山岳路線
自転車道が狭山丘陵にぶつかる地点にやって参りました。
場所はこのあたり。
狭山丘陵を越え、西武ドームへ至る都道との交差ポイントでもあります。
これは夜に一人では入ってはいけない雰囲気。
湿った空気を好んで生えたコケでしょうか、トンネルをより暗い雰囲気ににしています。
横田トンネルとあり、ここからは軽便鉄道が実際に通っていた隧道区間を歩いていくことができるのですが、
こ、ここは東京都ですか・・・
近代的なモノレールが走らんとする街に、かような雰囲気の廃隧道があるとはギャップがすごいです。この眺めを見にここまでやってきたのです。そして、隧道区間だとよりいっそう廃線の雰囲気が出てきますね。
歩行者専用のトンネル自体が珍しいですし、あったとしてもここまでの長さがあるものは、なかなか存在しないのではないでしょうか。
少し離れて横田トンネルの出口方面を見ると、山を一つ越えたのが分かります。背中側に目を向けると、
またしてもトンネルが・・・さながら山岳路線です。
横田トンネルに比べ湿気が凄いです。天井からは地下水が漏れ、歩行者に降り注いでおりました。写真でもその様子がご確認いただけるはずです。
赤堀トンネルを抜けると、ちょっとした住宅街に戻ります。少しゆくとまたしてもトンネルがありますが出口の光が見えません。
このトンネルを抜けると・・・・
国境の長いトンネルを抜けると・・・
ではないですが、鬱蒼とした森の中に連れてこられてしまいました。すごいな。ここで好奇心をくすぐられてしまった筆者。歩を早め、先へと進んでいきます。
森を抜け、小さな集落を横切り、
いざ何度目かのトンネルへ。お散歩中の幸せなお二人の邪魔にならないよう進んでいきます。第4、第5隧道は、戦中に日立航空機 立川工場の疎開先となっていました。トンネル内に旋盤が運び込まれて、飛行機用のボルトやナットを製造していたといい、戦況の苦しさも今に伝えてくれています。トンネルを進んでいくと、
今度も森だ・・・
御岳トンネルを抜けた時よりも、さらに深い森が待ち構えておりました。この先はどうなってしまうんだ・・・と
いや、正確にはあるんです。が
この先の廃線は自然に還りつつありました。
当日、サンダルで臨んだ私。雨が降り始め、土のぬかるみも凄く、残念ですがこの場所にて探索を断念することとしました。調べると、この先には入口が塞がれた第5隧道があり、さらにゆくと山口貯水池まで行くことができるらしいのですが、今は東京都の管理地で立入禁止となっています・・・・無念でありますが、今回の探索はここまでです。
にしても散策しがいのあるコースでありました。
ここに鉄道があったということを感じられたのは、市の説明板と終盤のトンネルくらいでした。ただ、やはり隧道区間、面白かったです。トンネルをくぐるたびに変わりゆく景色。次はどんな場所へ連れて行ってもらえるのだろう。と、大変興味深い遊歩道でありました。
モノレールが完成すれば都心からもアクセスしやすくなるでしょう。東京にいながら山岳路線を行くような感覚を、ぜひ現地でお楽しみください。最後に、訪問時に撮影したトンネル群を行く動画です。2倍速で再生いただけると雰囲気を感じていただけるかもしれません。
映像はこちら
おしまい
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