こんにちわ。早いものでGWから2週間。気温もぐんぐん上がり、夏の足音が聞こえてきました。早起きすると気分の良い季節。良いですねぇ。さてさて、季節は過ぎ去っていけども、まだまだコロ助さんが世間でのさばっており、お出かけにはもうしばらく時間を要しそうです。
ということで、蔵出し企画も3つ目でしょうか。2017年の夏に訪れた築地市場、最後の姿をお届けしたいと思います。
豊洲だー地下水だーベンゼンだー
と騒いでいたのが、今や懐かしく思えます。そんな渦中の人であった小池都知事も今年で4年目。夏の選挙を控え、コロナ対策にも力が入るでしょう。腕の見せ所です。そして、その姿勢が都民にしっかりと伝わっている?ことは、これが証明しております。
密ですゲーム
(追記 ※2023年1月時点で非公開になっておりました・・)
正直くだらないことこの上ないんです。が、個人的なツボはマスクを持ってきてくれる安倍ちゃん。コロ助さんで疲れ切った今日この頃、このあまりにもしょうもないゲームに、心がほぐされたのは、いつか懐かしく思い返すことでしょう。と、話がそれましたが、それではそんな?築地市場を見ていきましょう。
築地って読めない
そう、みなさんさらっと読んでいますが、この「築地」なかなかの難読地名ですよね。普通に読むとしたら
「ちくじ?」いや「きづきち?」
「築」を「つき」という読みは、到底思いつきません。誰しもがこの二文字を「つきじ」と読むことができるのは、この築地市場が人々に馴染みの存在だったからでしょう。築地はもともと普通名詞で
つき‐じ〔‐ヂ〕【▽築地】
海や沼などを埋めてつくった陸地。埋め立て地。
(goo国語辞典)
このような意味の言葉でした。実際、東京の築地は埋め立てで生まれたエリア。その誕生の経緯が、そのまま地名となって、今日に至っているわけです。となると、時期が違えば埋立地という地名にもなりえたわけですから、なんとも不思議な感覚です。同じような地名の例は、東京都江東区の木場、東京都西方の府中なんかもそうでしょう。
築地市場!
要塞のごとき佇まいが、これからはじまる探索に期待を抱かせてくれます。それではいきましょう。
個人が織り成す築地市場
と、さっそくお会いしたのは、魚!ではなくフォークリフト君たち。業者さんたちにとって、狭い築地場内での運搬に欠かせない相棒たちなんでしょう。朝のお勤めが終わったのか、シャワーを浴びておりました
包丁の築地 正本
当時は平成末期。街中を歩いても、大型資本の店舗が増えた分、個人店は減少しており、ご覧のような店先で作業される方を見かけることも減りました。ただ、そんな懐かしい光景を見られたのがこの築地。
築地というと魚の卸のイメージがどうしても強いですが、市場関係者向けの道具や食事などを扱う店舗もたくさんありました。車両を扱うトヨタの工場の周辺に精密機械や化学製品の中小企業や飲食店が集積するのと同じようなイメージでしょうか
個人の仕事が視界に溢れています。見ていて嬉しくなりますねぇ。こちらは東京都弘済会という東京都職員等のOBで構成された一般財団法人の区画。築地唯一の郵送物取扱所だったそうですが、とても公の団体の事業所には見えない構え、歴史を感じさせてくれます。
2020年5月12日時点で、公式HPが残っていたので、参考に貼っておきましょう。個人商店のような温かい雰囲気を感じることができますよ。
築地のパパ
東京にとどまらず日本の食文化の代名詞的存在であった築地市場。銀座との距離も近く、庶民の店から格式ある料亭まで、新鮮な魚介類等を送り出し続けてくれ、市場として確固たる地位を確立していました。今回、その歴史に幕を閉じてしまったわけですが、その歴史を紐解いていくと、開場は1935年と思ったよりも歳が若い印象です。はてはてどうしたものか。
それは築地が東京の二代目の市場であったからです。先代は日本橋魚河岸。どうでしょうか、どこかで耳にされたことがある方もいらっしゃるのでは?ちなみに現在の日本橋はこちら
江戸城近くのこの日本橋の川沿いに形成されたのが日本橋魚河岸
日本橋上から眺めたこの両岸でしょう。橋のたもとには
石碑が残されています。江戸湾で獲れた魚を猟師たちが幕府へ献上した帰り、残った魚を現在の日本橋川沿いで販売したのが始まりだとか。そこに魚を買い取って売る人、その魚を加工する人、そして、集まる人々を相手に商いをする人が少しずつ集まっていきます。
その賑わいの様子は江戸名所図会(ずえ)、今日のインスタグラムのような江戸のスポットを綺麗に描いている作品なんですが、それに見ることができます。
投稿者自身による作品</span>, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
橋上の賑わいはさることながら、舟、舟&舟!!
現在の落ち着いた雰囲気とは大違い。5街道が集う交通の要衝、そして庶民の台所であった日本橋は、殷賑を極めます。
越後屋、現在の三越なんかも有名ですね。その賑わいは維新後の大正期に至るまで続いていきます。
しかし、1923年9月1日 午前11時58分
関東大震災が発生
賑わいの中心にあった魚河岸は、灰燼に帰してしまいます。
300年近い歴史を持つ魚河岸を取りまとめていた東京市は、芝浦で仮営業を再開しますが、底地は借地であったため、腰を据えて営業することができません。そこで目を付けたのが、広大な海軍用地のあった築地。ここから築地の歴史が始まります。
築地の誕生
築地が選ばれた他の理由として、広い土地が確保できたというのはもちろんですが、大きかったのは、交通の便の良さでしょう。
築地は、現在、日本テレビが建つ位置にあった国鉄の汐留貨物駅に隣接し、東京東部の主要河川の隅田川も流れる、水・陸両面で交通の要衝。これは、市場で取り扱う品々を運ぶには素晴らしい立地です。
1935年に正式に築地市場は開場。それから70年間、この東京の一大市場は、この場所で、国内、さらには海外にも注目されるようになっていきます。しかし、諸行無常。今後予想される南海トラフ地震などで日本橋魚河岸の二の舞にならんようにでしょうか、施設の老朽化を受け、2018年に豊洲へ移転となってしまいました。
最終期、都知事を巻き込んだすったもんだがありましたが、その辺は暗い気持ちになるので省略
変遷を地図に落としてみました。ご覧のとおり、少しずつ郊外へ移動していっています。
市場は広大な土地を必要としますが、一方で時代がいくにつれ、周辺の都市化は進んでいきます。土地を市場として使うより、商業施設やマンションとして開発した方が良いという判断があったのでしょう。また、冷蔵機能を備えたトラックの普及などもあり、市場が町の中心になくとも、新鮮な状態で遠距離を運ぶことができるようになったのも影響していそうです。
歴史が繰り返すのであれば、豊洲もいずれはさらに郊外へと移動していくんでしょうねぇ。
つづく
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