前回はこちら
長いトンネルを抜けると
歩いて15分ほどでしょうか、出口にやってきました。まだ目が慣れません。
現在は当時の機材などの展示場となっています。建屋はかなり年季が入っていて乙な雰囲気です。平成元年に現役引退。羽振りがよさげな金山ですが、建物は大切に使っていたんですねぇ。
往年の名役者たちが居並んでおり、心なしか古くなった油のにおいが。渋い展示です。
動きましたこれ。鉄道好きとしては嬉しい展示。クロッシングポイントも珍しい存在です。
機関車はモーターと充電池を動力源とし、1日の勤務が終わるとこの車庫で充電をしていたようです。現代的なエコな仕様です。
お祭りなどでみかけるミニSLのイメージに近いでしょうか。小さいころ滅多に乗せれもらえなかったな←
こんな具合で佐渡金山の展示は往年がイメージできるように工夫が凝らされており関心してしまいました。他にも例えば、
耳栓の代わりにティッシュを詰めて使ったのは面白いです。背景には、今と変わらずの道遊の割戸。
かつては国内各地で見られ、映画などの題材にもなった生活も今や過去のもの。日本が資源で潤った時代があったとは隔世の感です。
奥に口をあけているのが高任抗。雨天時のみ通行可能で、出口までを短絡しています。そして、ここから少し登っていくと、道遊の割戸が間近で見れるというじゃないですか。ちょっと行ってみます。
道中は、砂利の坂道。軽い登山気分で数分間、足への刺激を楽しみます。
この神社は、相川下山ノ神町にある鉱山の総鎮守「大山祇神社」の分社です。
明治時代の初代佐渡鉱山局長 大島 高任の偉業を称え、この一帯が「高任地区」と呼ばれていることから、この神社も「高任神社」と命名されました。
この神社を越えてゆくと、
丘を下り、再び車庫付近まで戻ります。
大まかなイメージですが、
新たな相川は、濁川の台地上で土地が広く、何より海へのアクセスが至便です。職住近接から次第に職住分離に重きが置かれていったのでしょうか。雨が降ってきました。順路に戻ります。
鉱石が岩盤から旅立つとき
地面に残るレールに導かれ台地の縁にやってきました。
この円柱の枠組みに鉱石が積まれた貨車をおさめ、回転させて車両ごと天地返しをするための装置です。
貨車に積まれた鉱石は、重力に従って落下します。
ちょっと下を覗いてみると、
これにて前回からの道遊抗コースが終了。所要時間は60分ほどでした。
ここからは先ほど眼下に見た施設群を見に行きます。お土産屋から道を数分下っていきます。
1937(昭和12)年から平成元年まで使用されました。落下してきた鉱石を破砕し、ベルトコンベヤーに載せて、
この貯鉱舎で保管されました。当時の構造物から工程を追えるのが面白いです。
保存された鉱石は、搗鉱場の他、トロッコに載せられ後述の北沢浮遊選鉱場にも運ばれました。一階部分の空洞は、トロッコが入線する空間だったのでしょう。
沿岸に金山施設を有する濁川に架かっています。
精錬、それは鉱石が輝くとき
施設群から道路を隔てて存在していた間ノ山搗鉱場
現在見ているのは、1925(大正14)年に造られた基礎部分。1943年(昭和18)年までの18年間という短命な施設だったようですね。
鉱山は、国策や貿易などの外部環境の影響を受けやすく、投資を回収しきれなかった場所も多そうです。
打ち立てのコンクリートにはなく、朽ちたコンクリートを眺めた時だけに湧く感情がある気がします。不完全の美というのか、諸行無常のなんたらか。
最後に、もう一つの精錬先へ。少し距離があるため車での移動です。
選鉱とは、鉱石から不要鉱物を取り除く鉱山での最終工程のこと。
1938(昭和13)年に竣工し、その規模は東洋一を謡われました。戦前の構造物によくある枕詞です。しかし、1952(昭和27)年には、経営悪化により鉱山規模の縮小が決まり、選鉱場も運用停止となりました。わずか14年の活躍でしたが、道遊の割戸と並び、佐渡金山で際立つ存在感を放っています。
おしまい
コメント