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まだまだ重伝建いきますよ。みんな違ってみんな良いのです。
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今日なん箇所目?ごかしょう目だ
いいえ、3か所目です笑
滋賀県東近江市にある五箇荘金堂(ごかしょうこんどう)地区です。
前回の近江八幡市同様、近江商人の拠点となっていましたが、近江八幡市が商いの拠点だったのに対し、こちらは各地を行脚する商人たちの住まいの拠点でした。言ってしまえば、浅草のように職住近接な街が近江八幡、田園調布などの住宅街のように通勤の拠点だったのがこの五箇荘金堂だったわけです。ゆえに、周辺を農地に囲まれていることも相まって、街の雰囲気にも落ち着きがあります。
ご覧になってどうでしょうか。悪くないですよね。
また、五箇荘金堂の特徴としては、古代期に発生した条里制の面影が現在の街並みにも残っている点を挙げることができます。
じょうり‐せい〔デウリ‐〕【条里制】
古代の土地区画法。6町(約654メートル)の幅で碁盤目状に区画し、東西の列を条、南北の列を里とした。また、6町四方の一区画を里とよび、里はさらに1町間隔で縦横に区切って36の坪とし、何国何郡何条何里何坪とよんで土地の位置を表した。
(引用:goo国語辞典)
古代の住所表示と租税徴収の基礎となった条里制。厳密には違うのですが、京都の街並みを想像いただければおよそ同様な区割りなはずです。下のGoogle mapをご覧ください。
後の土地開発等で、その格子状の区割りは崩れていったわけですが、農村での営みにおいてはちょうど良い具合に機能したようでして、現在でもこの五箇荘金堂を含め各地でその形状を見ることができます。
訪問時はちょうど夏でしたが、日本家屋特有の涼しさがこの縁側を包んでおりました。こちらは五個荘 近江商人屋敷 外村(とのむら)繁邸
外村 繁は、戦前から戦後すぐにかけて活躍した小説家。この五箇荘で木綿問屋の家に生まれました。この建物は、外村の記念館、そして近江商人の営みに触れることができる場所として公開されております。
彼らはこの天秤棒1本を携え、各地を行脚し富を築いたのでした。
近江の千両天秤とも呼ばれ、近江商人のたくましさを今日まで伝えてくれています。
商人を題材とした小説を描くなど、彼の作品には、彼のこの五箇荘での生活が大きく影響しているのでしょう。正直に言えば、この五箇荘を訪れるまで彼の存在は存じ上げなかったのですが、こうしたきっかけで名前は記憶に残るので記念館もばかにできません。
幻の百貨店
戦前、日本領であった朝鮮において、あの三越を超え国内一の売り上げを誇った幻の百貨店が存在しました。その名も
三中井(みなかい)百貨
日韓併合後の1911年より、国の大陸進出の波に乗るように、朝鮮、満州、そして中国へ店舗を拡大、急成長を遂げます。当時の社員募集コピーは
実業をもって鮮満支に活躍せんとする青年は来たれ、我が三中井へ
若者の心に刺さる熱量に満ちた言葉が並びます。新天地で未来を切り開くんだ!ロマンを抱いた男たちが集まったのでしょう。最盛期は4,000人の従業員を抱えていたのだそうです。
しかし
こういった成功話には、得てして悲しい結末が付きまといます。終戦により国内店舗を持たなかった三中井の栄華は、一夜にして水泡に帰したのでありました。幻の百貨店と呼ばれる所以です。
そんな三中井を創業し、経営の拠点としたのがこの五箇荘の中江勝次郎でした。拠点を持ちながら外地で活躍する様は、まさに行商 近江商人といったところでしょうか。
儚く消えた三中井ですが、実は現在もその面影を感じられる場所が2か所だけ存在します。その1つがこの五箇荘に今も残る勝次郎の5男坊 中江 準五郎の邸宅跡。ここで掲載している上と下の写真は、いずれも同地で撮影したものです。
当時の新聞でしょうか。右下に見える合資会社清水組の文字。これは現在の大手ゼネコン 清水建設
そして、三中井の面影を感じることができるもう一か所は、洋菓子屋さんの三中井。このお店は、戦後、全資産を失った三中井百貨店創業一家が、ふるさと滋賀県彦根市内に開業したお店なんだそう。
ご覧いただくと分かりますがなかなか評判の良い洋菓子店のようです。海の向こうで隆盛を極めた百貨店が、現在ではこじんまりした街の一商店として営業しているというのは、おとぎ話のようですね。
県下有数の街 彦根
五箇荘を後にし本日4か所目、最後に訪れたのはこちら
滋賀県東部に位置する彦根市です。ひこにゃんによる統治が行われており、最も滑空距離のある人力飛行機を生み出した者に、富と名誉が与えられるという国内でも例を見ない都市です←
特に彼は市内に留まらず、全国に勇気と感動を与えてくれたことで有名ですね。
是非一度その雄姿をご覧いただきたいところです。
市中にはご覧のような看板も
琵琶湖を背にし、関西、北陸、東海の三方面へ至便な土地であります。
歴史上、最初に姿を現すのは、秀吉によって石田 三成が、彦根近郊の山の上に建つ佐和山城へ入城してからでしょうか。
私は最初はどこから読めば良いものかと、頭を悩ませたのですが
大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)
という三成が大切にした理念なんだそう。
「みんなが1人のため、1人がみんなのために動けば、政治も国も万事上手くいく」
というような意味合いだそう。つまり、All For One. One For Allです。
悲しいことに敗将として紹介されることが多い三成ですが、素晴らしい理念を掲げて、それを実行し続けたためでしょうか、現在でも彦根市内ではその名前をよく見かけます。
彦根を治めていたのはほんの十数年でしょうが、500年近くたった今でも、彦根民に愛されているのだからすごいことですよね。
三成が関ヶ原で敗れた後、井伊家が彦根入りし琵琶湖近くに彦根城を築きます。以後、城下町、そして中山道の宿場町として賑わっていきます。
井伊家は、幕末期、安政の大獄の中心人物となって大老 井伊 直弼を輩出するなど、幕府の重要ポストに近い家柄。そんなこともあり、幕府は、近江以西の外様大名、どちらかといえば、幕府との関係が薄い大名たちの”監視役”として、信頼の厚い井伊家をこの彦根に配置します。
そして幕府の思惑のとおり、250年近く幕藩体制を揺るがすような大きな反乱は発生することはありませんでした。
今回は時間もなく簡単な散策に留まりましたが、次の来訪の際には三成の佐和山城、井伊家の彦根城、いずれも併せて散策したいところです。
以上、そんな彦根市の様子をお送りしm・・・
あっ、0系!笑
おしまい
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