多摩都市モノレールの上北台駅へやってまいりました。
本日2022年10月22日(土)は、箱根ケ崎方面への延伸が決まりつつ多摩モノレールの都市計画案の説明会が武蔵村山市で開催される日。
これまで鉄道好きを標榜しながら鉄道ができる過程に触れたことがなかったこと、加えて都内唯一、鉄道の走らない武蔵村山市がどのような雰囲気で本日を迎えるのかが気になり、訪れたのでありました。
来たれ鉄道!
ハレの日にも関わらず、この日は曇天。
鉄道の無い武蔵村山市へは、上北台駅からこちらの市営コミュニティバス MMシャトルに乗車します。運賃は180円、日曜の日中ながら10名程が乗り込んできました。
片思いの多摩都市モノレール君と同じ塗装を身にまとい、彼と結ばれる日を待っています。
武蔵村山市のホールで行われた説明会には市内外から目算で150名ほどが参加されておりました。反対派のシュプレヒコールもあるかと、思っていたものの意外と説明会は淡々と進み終了。
ということで、”一次会”の空腹感を、以前より関心のあった都営村山団地散策を”〆の時間”としたのでありました。
こちらは武蔵村山市役所から上北台駅ゆきバスに乗り込み、村山団地の北端部に所在する学園停留所で途中下車し、散策を開始します。
まずは、モノレールの建設に合わせて西多摩の大動脈 新青梅街道。車道・歩道共に拡幅され、中央分離帯上空をモノレールは走ることになります。この光景もあと数年で見納めとなるでしょう。
街道沿いには大規模な緑地が「俺を見ていってくれと」言わんばかりに横たわっています。現在、ひまわりガーデンとして夏季の観光名所になっているこちらは、モノレール延伸開業に合わせて駅前広場が整備される予定地。こんなことから、駅名は村山団地前とかになるんでしょうか。
村山団地 5260戸の生活
ここからは団地内部に潜入していきます。
早速現れた市民の壁。圧巻です。
側面が微かに夕陽に照らされ、迫る門限のギリギリまで遊んでいた幼少期が思い出されるそんな光景です。
村山団地は、1964(昭和39)年から1966(昭和41)年にかけて建設、1966(昭和41)年に入居開始なので、建設から60年近くが経過しています。ただ、壁面や棟数のフォントを見るに、直近でリニューアルされているようですね。
完成時の総戸数は5,260戸を誇り、5階建てアパートを中心に424棟(!)が林立していました。
建設の背景には、高度経済成長期の地方から東京への労働者の流入とそれに伴う住居不足がありました。
東京都は、プリンス自動車(現在の日産)の工場予定地に近いこの場所に、商業施設や緑地、各種公共施設を内包した団地建設を決定。さらに増加が予想される労働者の生活の場として機能することを期待したのでした。その後、数年で村山町(現 武蔵村山市)の人口は1万人近く増加することになります。
行政がこれほど大規模の住居を積極的に建設するとは、隔世の感がありますね。60年で時代は大きく変わるのでしょう。
とはいえ、時代の流れとは残酷です。1999年(平成11)年、稀代の(良くも悪くも)経営者 カルロス・ゴーン氏の日産再建策の一環として日産村山工場は閉鎖されてしまいます。時を同じく、建設から30年を経た団地にも老朽化の波が。この時期から建て替えがはじまっていくのでした。
ちなみに、これは現在の団地周辺の航空写真です。左下の広大な敷地が日産村山工場の跡地。
一部はイオンモールむさし村山となりましたが、多くは宗教法人真如苑が739億円で取得。そんな大金がどこから調達されたのかは、ワタシニハワカリマセン。
工場廃止から20年以上が経った今も広大な空き地が残されているという珍百景スポットになっています。
団地生活を支える商店街
てなわけで村山団地の中央商店街の入口までやってまいりました。最寄りのバス停は、店 舗 前
命名担当者はよほど仕事に追われていたのか無愛想な名前となっています。なんとかならんかったのでしょうか笑
他の団地と異なり、空が広く、広場の空間もあるためか、暗い印象は受けません。
現在は余裕のある土地割ですが、往年は多くの住民の方々が行き交ったのでしょう。
最盛期の団地区画のうち北部エリアの建物が取り壊しとなったため、「中央」と名乗っているものの、現在ではやや団地区画の北寄りに位置しております。
とはいえ、まったく人の気配のない地方のシャッター商店街なども見てきた後だから、まだ温もりを感じられる空間になっています。
レンタルビデオショップGEOのドラッグストア化が話題となる昨今、古本屋は貴重な存在です。
最近ではすっかりメルカリにお世話になることが増えてしまいました。
郊外の団地では買い物難民が問題となることもありますが、村山団地にはその心配がなさそうです。幸いにも平地が多い武蔵村山市。交通機関さえ整えば、高齢の方でも生活がしやすい環境かもしれません。
整然と並んだ団地とアーケード付きの商店街は今眺めても美しいですね。人の往来もまだ健在で、自転車を漕ぐ方、老夫婦、そして私のような流浪人が思い思いの時間を過ごしておりました。団地の包容力はすごい。
団地の深部と未来
せっかくなので、もうちょっと団地散策を楽しんでみましょう。
この看板、どこかで見たことがあるような気がしたのですが、
皆さんご存知のこれでした。(!?)
完成当時の雰囲気がよく残された動画 『団地への招待』広大な団地には案内図が今も昔も欠かせません。
左手に写る円盤型の謎の遊具。子どもの感性を刺激する秘密基地感があります。私がおかんに手を引かれる頃だったならば、ねだるでしょう。「この園に入りたい」と
園の前は、
並木道。これには驚きました。歩車分離って当時から設計思想としてあったんですね。
車を気にせず外を歩ける場所って、今でも少ないんですよねぇ。団地のハコと規模が時代に取り残されたとしても、この発想は今でも輝いて見えますね。
と、そんな私を見透かしたように赤く輝いている棟。
とはいえ完成当時、昭和30年代の団地は実際に輝かしい存在でした。現在のタワマンのように浮世離れした存在ではなく、庶民の憧れ。抽選を突破さえすれば、手に入る夢の生活だったようです。
お風呂付き、何より水洗トイレ。高層階では蚊の心配もいりません。
銭湯へ出かけ、おトイレは離れの汲み取り式の日々を過ごしていると、憧れとなるのも分かる気がします。
ただ、今となっては懐かしい光景が印象的な団地ですが、未来に向けた投資も行われています。例えば、
他にも、
団地はこれからも時代に合わせた変貌を遂げていくようです。
子どもから大人までが同じ区画で過ごす生活。近所付き合いが希薄な昨今において、得るものも多いような気がします。
中央線や多摩都市モノレールがオレンジ色をまとっているのは、こんな理由からかもしれません。
多摩都市モノレールが延伸されれば、立川まで15分ほどで行けるようになります。そうなれば、再開発やら街の雰囲気も大きく変わることでしょう。今後、時代の流れが、こののどかな空間を許してくれなくなる日もくるかもしれません。記録に残すのは今がチャンスでございます。
おしまい
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アクセス
・車:中央自動車道 国立府中ICより約30分(東京から約60分)
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